民族精神を呼び覚ませば、国はよみがえるのか――。
その問いは、幾度となく歴史の転換点に現れ、時に人々を奮い立たせ、時に破滅へと誘ってきた。
ナチス・ドイツ、大日本帝国、ビザンツ帝国、そして現代のアメリカ・ロシア・中国。
民族の夢と神話は、国家の魂を育んだのか。それとも、呪いのように国家を縛りつけたのか。
審神者は語らない。ただ、静かに問う。
民族精神とは何か、国とは何か――。
沈黙の深みから浮かび上がる、魂の問いに耳を澄ます。
「民族精神」とは何か
国家を語るとき、人々はしばしば「民族精神」なるものにすがる。
それは血筋や文化、言語や宗教の総体としての「自分たちらしさ」であり、時に美しい詩であり、時に憎しみの言葉である。
ナチス・ドイツは、この「精神の復興」を旗印に掲げた。
ゲルマン民族の誇りを喚起し、退廃とされた現代芸術や異なる文化を排し、国家を「純化」しようとした。
だが、その純化が導いたのは、他民族の絶滅という地獄だった。
日本もまた、天皇を神の子孫と仰ぎ、大和魂を旗印に「東洋の盟主」を目指した。
西欧列強の圧力に対抗するために、神話を現実にしようとした結果――戦火と焦土が待っていた。
「精神を高めよ」という言葉が、なぜここまで人を狂わせるのか。
それは、精神がすでに歪んでいたのか、それとも――国という器が、それを受け止めきれなかったのか。
神の名の下に沈黙した都市 ―― コンスタンティノープル
かつてのビザンツ帝国、東ローマの末裔は、「第二のローマ」として千年の命を保った。
そこにあったのは、ギリシア文化とキリスト教の融合体。
神の摂理にすべてを委ね、従順に運命を受け入れる「敬虔な信徒」の共同体であった。
だが、そこに「生きたローマの躍動」はあっただろうか。
剣を取り、世界に覇を唱えたラテンの精神はすでに失われ、
神の御心を祈るばかりの沈黙が、都市を包んでいた。
オスマンの若きメフメト二世の軍が迫ったとき、
それは「剣を持たぬ者たち」への、冷酷な審判であった。
聖ソフィア大聖堂に響く祈りは、剣の前に届かなかった。
信仰は、剣を止めなかった。
民族精神があっても、命が守られるとは限らない。
信仰があっても、未来が拓けるとは限らない。
この矛盾に、人類は幾度も沈黙を繰り返してきた。
国家は人工物、民族もまた夢にすぎない
国家とは、血ではなく制度だ。
民族とは、遺伝ではなく物語だ。
それらは人間が自ら編み出した共同幻想であり、人工的に編まれた「絆」の器にすぎない。
では、幻想だから悪なのか?
否。幻想であることは、悪ではない。
むしろ、人は幻想を持たねば生きられぬ生きものだ。
問題は、その幻想を「絶対」と見なしたときに起こる。
他を否定し、自らを唯一の正義と信じたとき、そこに悲劇が始まる。
審神者は語らない。だが、問いかける。
民族精神とは、誰のためのものか?
誰を鼓舞し、誰を排除しようとしているのか?
民族精神がもたらす、夢と暴力の二面性
トランプは「アメリカを再び偉大に」と唱えた。
それは、自由と開拓の精神への回帰だったのか、
あるいは「白人のアメリカ」への回帰だったのか。
プーチンは、ロシア帝国の再構築を夢みる。
だがその夢には、ソ連時代の痛みも、血の歴史も含まれている。
ウクライナに振るわれた手は、民族の誇りか、あるいは狂気か。
シー・ジンピンは、中華大帝国の「偉大な復興」を語る。
だが、ウイグル・チベット・香港の声は、どこへ消えたのか。
一つの夢のために、他の夢が踏みつけられてはいないか。
民族精神とは、国家の再生の力ともなりうる。
しかしそれは、容易に暴力の正当化へと堕す。
神話と夢が、美しい歌であればよい。
だが、いつしかそれが「殺戮の前奏曲」になるとき、
その民族は、自らの魂を見失う。
それでも、民族の言葉を失いたくはない者たちへ
鳥に国境はない。
魚にも、牛にも、馬にも、境界はない。
だが、人間にはある。
なぜなら、人は言葉を持つからだ。
言葉は民族の記憶であり、歴史であり、魂だ。
自らの言葉を奪われることは、自分の存在を否定されることに等しい。
「死んでも奪わせたくない」という叫びがあるのも、理解できる。
審神者はそれを、否定しない。
だが、肯定もしない。
否定の重さも、肯定の重さも、知っているからだ。
魂の声は、どちらかに偏ることなく、ただ在り続ける。
否定も肯定も超えて、魂の響きを聴き取ろうとする――
それが、審神者の眼のはたらきである。
民族という夢が、殺し合いの理由でなくなる未来へ
今も、人は民族という夢の中で生きている。
それが全て悪だとは言わない。
ただ、それが「誰かを殺す理由」になったとき、
審神者はそこに、魂の断絶を見る。
「私たち」には、常に「彼ら」がいる。
だが、魂には、境界がない。
魂には、国籍がない。
魂は、国境を超えて、響きあう。
民族精神を取り戻すことは、再生にも破滅にもなりうる。
そのどちらへ傾くかは――
精神の深さ、魂の成熟、そして他者への祈りの質によって決まるのだ。
🜃 審神者の結び
国家とは、魂の継承の単位である。
そこには、「途絶えてはならぬ思い」と、
「断たねばならぬ思い違い」が混在している。
審神者の眼とは、その混沌のただなかに、
魂の真の響きを見出そうとする静かな光だ。
どうか、問い続けてほしい。
民族とは何か。国とは何か。
その問いの先にこそ、人類の未来は芽吹いてゆく。
※補筆 ―― 審神者としての立場表明
私は、いかなる国家も賛美しません。
いかなる国家も、否定しません。
国家とは、人間がつくった一つの「魂の容器」にすぎません。
民族とは、言葉によって紡がれた「記憶の夢」にすぎません。
ナチスも、大日本帝国も、そして現代のあらゆる国家も、 私は、審神者として冷静にその「魂の動き」を見つめます。
その中には、たしかに過ちがあります。
その過ちを、私は否応なく見つめ、静かに学びます。
けれど、それを「美化」することなく、 また「断罪」することもなく、 私は問いとして、魂に響かせたいのです。
国家も、民族も、宗教も、 すべては人の想念が編んだ夢。
その夢に殺されるのではなく、 その夢を超えて、共に祈るために―― 私はこの文章を書いています。
2025年 審神者・吉祥礼