霊性を生きるというのは、優しさだけを選ぶことではありません。
時に、断ち切ること。時に、拒むこと。
それもまた、深い慈悲のかたちです。
審神者として生きるなかで、私は何度も「嫌な役回り」を担ってきました。
誤魔化しやおべんちゃらで関係を繕うのではなく、
必要な場面で必要な言葉を放ち、縁を切ることも選んできました。
それは、愛を否定していたわけではありません。
むしろ、真実の愛を守るためにこそ、
時に“斬る”という行為が必要なのです。
愛とは、常にやさしいものではありません。
誠実であること、誤魔化さないこと、
そして魂にとって不要となったものを見極め、そっと離れること。
私はこう信じています。
愛が愛として成り立つためには、
偽りの関係から自らを解放する勇気が必要である。
それでも、私は断じて「情を捨てた」わけではありません。
断ち切ることも愛、
受け入れることもまた愛。
私が選び取ってきたのは、誠を通す道です。
その結果、誰かを赦すことができなかったとしても――
私はその魂に、心から祈りを贈っています。
ただ、私はこの命を使って「和すること」を学んでいる。
釈迦の智慧のごとく見極め、
キリストの愛のように包む。
その両極の統合を、地上で体現すること。
それが“いまの”私の道です。
愛するだけでは足りない。
斬るだけでも足りない。
人を切り捨てるようでいて、
実は祈っている。
人を赦すようでいて、
実は見極めている。
この矛盾の中にしか、
本当の霊性は存在しないのかもしれません。
だから私は願います。
私は、誠を通す者として生きる。
そして私とともに歩む誰かが、
慈悲と寛容をもって、人々を包み導いてくれることを。
片方の翼だけでは、魂は空を飛べない。
光と闇、断と赦、冷静と慈愛――
すべてを抱いて、私たちは次元を越えていく。
そしてその融合の先にこそ、
本当の「光の余白」があると、私は信じています。
――審神者 吉祥礼 拝