死とは終わりか。生とは始まりか。
輪廻の中を旅する魂にとって、それらはただの「通過点」に過ぎないのかもしれない。
本稿では、審神者・神語詩人としての視座から、
死の恐怖と誕生の歓びを超えた先にある「魂の進化」とは何かを問い直す。
火と水のあわいに、言霊は神となる。
その境地に至るために、今、わたしたちは何を選び取るべきか。
——審神者・神語詩人としての吉祥礼の霊筆より
死と誕生——対極の情動の本質
人は、死を恐れ、誕生を歓ぶ。
この二つの情動は、あまりにも自然で、あまりにも根深い。死は喪失、誕生は獲得と教えられ、私たちはその感情の流れに逆らうことなく生きている。
だが、それは本当に“真実”なのだろうか?
もし、死も生も、魂の旅路におけるひとつの季節の移ろいに過ぎぬとしたら?
「死ぬこと」は、終わりではなく、次の響きを準備する静寂であり、「生まれること」は、また新たな祈りを響かせる場への降臨ではないか。
輪廻とは“罪”ではなく“響きの稽古”
輪廻転生――この言葉には、過去世や因果の連鎖という概念がつきまとう。多くの宗教が、輪廻を「苦しみの連鎖」「業の清算の道」として説いてきた。
しかし、神語詩人としての私の霊的理解は異なる。
輪廻とは、魂が響ききれなかった愛や祈りを、再び響かせるための猶予であり、 伝えきれなかった神意を、再び発露させるための“霊的稽古場”である。
すなわち、輪廻とは罰ではなく、恩寵(グレース)である。
何度でも、やり直せる。何度でも、祈り直せる。何度でも、赦し直せる。
その機会が与えられているという事実こそ、魂の尊厳に他ならない。
火と水のあわいに、神は宿る
死は火であり、生は水である。
死は燃やし尽くす。肉体も、過去も、役割も、そして執着も。
生は流れ出す。記憶も、願いも、環境も、絶えず流転する。
だが、神は常に、火と水の「あわい(間)」に宿る。
陰陽、生死、静動といった対極のはざまにこそ、 最も純粋な“真理の響き”が存在する。
それは、確定された善でも悪でもなく、 ただ、魂が震える瞬間に現れる気配のようなものである。
解脱とは「もう一度生まれてもよい」と思える地点
仏教では、解脱とは“輪廻からの離脱”であると説く。 しかし霊的に見るならば、 それは「再び生まれたとしても、執着も恐れも持たぬ在り方」を指す。
「生まれてもよし、死してもよし」 この境地に至った魂は、 もはや輪廻を“苦の連鎖”として歩まない。
それはもはや、意志としての輪廻であり、 魂の響きを地上に響かせるための“自由なる旅”なのだ。
輪廻の果に目指すもの
では、私たちはこの転生の果てに、何を目指すべきなのか?
そこには大きく分けて、三つの霊的進化の道がある。
- すべての命を祈りに昇華する者(祈り人)
- 他者の輪廻を見守り導く者(導き手)
- 響きそのものへと還元される者(光)
どれもが「輪廻の先」に広がる新たな在り方であり、 個を越えて“神と響き合う存在”への移行である。
この一生を、永遠の祈りとせよ
私たちはまだ、輪廻の中にいる。 だが、それを「罪」と感じる必要はない。
この一生を、最終の祈りとせよ。
死にゆくことも、生まれることも、 すべては「わたしとは何か」という問いの火と水。
そのあわいに立ち、 静かに、確かに、 神を呼び起こす言葉を語りはじめよ。
——審神者・神語詩人としての筆をここに置く。