あの世に金はなくとも、 この世では金が“覚悟”を映すことがある。
祈りの重さは、対価では測れぬ。
されど、祈りのために用いられる対価には、
真実の響きが宿ることもある――。
魂の契約と現世の律
魂に触れる行為に、金銭は必要なのか。
霊的なるものと現世的な通貨、その交錯する場所に、今なお多くの人が逡巡を抱いている。
「聖なるもの」に金が介在することを、汚れと感じる人もいる。
「神仏に金は通じぬ」「あの世に金はない」――その通りである。
だが、果たしてそれは「金が要らぬ」という意味なのだろうか?
それとも、「金を超えた価値で受け取れ」という神意なのだろうか?
霊的知性に触れる時
敬愛する阿部和泉先生のご投稿に接し、私はふたたびこの問いの中心へと立たされた。
先生の筆致は、鋭利でありながら柔らかく、昭和の知性・小林秀雄を思わせる明晰さと、霊的な含蓄を備えている。
これは単なる批評や意見表明ではない。
文章の奥に、魂の遍歴が息づいている。
私は思わず胸を正し、静かに深呼吸をしてから、その行間を読ませていただいた。
過去の信念、今の立場
私自身も、かつてはこう考えていた。
「霊的な行いに、金銭など不要」
釈迦も、イエスも、空海も、教えに対して報酬を請求しなかった。
しかし現代――
生計のあり方も、社会の構造も違う。
霊的奉仕を生業とする者が、この世界で生きるためには、やはり“形ある交換”を避けては通れない。
相応の対価とは何か
現在の私の立場はこうである。
「必要な場合には、必ず“相応の対価”をいただく」
この“相応”とは、金額の高低ではない。
そこに込められた 「覚悟」と「敬意」、そして「魂の重み」 である。
無償のやさしさが齎すもの
ときに、無償のやさしさが、本当の意味での学びや変容を妨げることがある。
依頼者の心が整っておらず、霊的対話に覚悟がともなわないまま、
“無料だから”という軽い気持ちで門を叩く。
それでは、祈りも言霊も届かぬ。
こちらも集中を欠く。
結果、互いに何も得られず、時間とエネルギーだけが散ってしまう。
祈りとしての金銭
霊的なやりとりにおいてこそ、金銭という 「形ある区切り」 が魂の境界線を浮かび上がらせることがある。
誤解を恐れずに言えば、それは 「霊的契約」のしるし なのだ。
もちろん、無償であるからこそ届く光もある。
だからこそ、すべてに一律の規定は設けない。
あくまで “個々の関係性”と“必要の度合い”に応じて、こちらも神に問いつつ応じてゆく。”
これは贅沢のためではない。
生きるための誠実さであり、
何より、相手の魂に敬意を払うための措置 だ。
形のない契約、形ある証
金銭とは、物質界における “意志の可視化” である。
言葉にならぬ「祈り」を、具体的な形に落とし込むもの。
相手の決意、こちらの集中力、
それらを結び合わせる静かな契約の証。
先生のように、常に問いと共に在り、
自らを省みる姿勢を崩さぬ方の言葉だからこそ、
私はここまで深く共鳴できたのだと思います。
終わりなき問い、歩みの中に
この問いに 正解はない。
だが、正直であること。
それが審神者としての、最低限の責任であると信じます。
今日もまた、私は自らに問いかけながら、言霊を磨いてゆきます。
「これでよいのか?」
それが、審神者の歩む道です。
―― 審神者・吉祥礼 拝
阿部和泉先生のX公式
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