◆ はじめに ― 食べるという日常の奥にあるもの
私たちは日々、食事を通して命を繋いでいます。
朝、炊き立てのご飯を口に運び、湯気立つ味噌汁をすする。
それはあまりにも当たり前の風景となっていて、
つい、その奥にある“命の重み”や“魂のめぐり”に目を向けることを忘れてしまいがちです。
しかし、食べるという行為は、単なる栄養補給ではありません。
それは霊的な交わりであり、魂の受け渡しのひとときでもあるのです。
◆ 本論 ― 命は食べられることで終わらず、昇華していく
食卓に並ぶひとつひとつの食材には、それぞれの命の記憶があります。
一粒の米、一葉の菜、一切れの肉――それらはすべてかつて、
水に潤され、光に照らされ、風にそよぎながら、この世界を確かに生きていました。
なかには、自らの死を望まず、突然に摘まれた命もあったでしょう。
その痛みや哀しみを無視して、ただ“当たり前”のように食すことは、
人の魂を鈍らせ、感謝を忘れさせてしまいます。
けれども、そこにあるのは哀しみだけではありません。
私たちの中に取り込まれた命たちは、私たちの血肉となり、魂に溶け込み、昇華されていくのです。
それは、命が命に抱かれることで、新たな霊的段階へと出世していく道。
いのちの旅は、そこで終わるのではなく、形を変えて続いていく。
このことに気づくとき、食事は単なる生活の一部ではなく、聖なる儀式としての意味を帯びてくるのです。
◆ 結び ― 食べることは祈り。祈りとは感謝と共鳴のかたち
「いただきます」と手を合わせる行為。
それは、食卓の前に立つ小さな祈りであり、
私たちが命をどう迎え入れるかという魂の姿勢の表れです。
そして「美味しい」と感じる瞬間は、
味覚の喜びだけでなく、魂が他の命と響き合い、ひとつになる歓びでもあるのです。
今日もまた、多くの命が、静かに、私たちの一部となってくれる。
だからこそ、私たちは丁寧に食べ、丁寧に生きなければならないのです。
いただいた命のぶんだけ、私たちはより真剣に、より誠実に、この生を全うする責任がある。
食すことは、命を巡らせること。
命を巡らせることは、魂を育てること。
どうか今日の一食が、あなたの魂を豊かにし、
その先に続く命の道を、より優しく、より尊く照らしますように。
― 審神者・吉祥礼の筆より
