俗を離れ、花を詠み、死を抱いて歩いた者。すべての響きを見送るために。
最後に語る者、西行
『平家物語』を語り終えるにあたって、私が最後に選んだのは、西行というひとりの僧である。
彼は物語の登場人物ではない。 だが、この時代を生き、この美学を知り、この無常の響きを最も深く抱いた者の一人であると、私は確信している。
武士として朝廷に仕えながらも、すべてを捨てて出家し、歌と月と花に生きた男。 その背には、栄華も恋も、戦乱も、すべてが過ぎ去った後の「静けさ」があった。
西行は、平家の興隆と衰亡を見た。 清盛を知り、時代の移ろいを肌で感じていた。 そして、そのすべてを歌へと変え、風景のように見送っていった。
「春死なん」の死生観
願はくは 花の下にて 春死なん その如月の望月のころ
この歌に宿るのは、西行の死生観そのものである。 死を忌むのではなく、自然の美とともに受け入れようとする境地。
それは、『平家物語』の美学にもつながっている。
戦の勝敗でもなく、権力の盛衰でもなく、 ただ美しく散ること、儚く終わること、それが人の生の本質なのだと。
平家物語の一節にも、西行の歌が引かれている。 それは偶然ではない。
物語の根底に流れる「諸行無常」の響きを、最も深く知っていたのが西行だった。
恋と芸術の昇華
西行は、恋をした。 かつて北面の武士だった彼は、華やかな宮中に生き、色恋と俗世の喜びを知っていた。
だが、それらを捨て、放ち、昇華させることで、 彼の恋と性のエネルギーは芸術となり、祈りとなっていった。
花を詠むこと。 旅をすること。 誰かを恋い、そしてその想いを超えてゆくこと。
それらすべてが、祈りであり、慰めであり、ひとつの「終わりのかたち」であった。
物語を見送る者として
『平家物語』は、清盛に始まり、徳子で泣き、義経で燃え、資盛で祈り、 そして、西行によって、「静けさ」に至る。
彼は物語の結末に立ち会いながら、それを語らず、ただ見送る者であった。
それゆえに、結びにふさわしい。 彼のまなざしは、誰かの勝ち負けにも、哀しみにも染まらず、
花の下で死にたい
と願うほどの、清らかな美しさを保ち続けていた。
そしてその願いは、実現する。 西行は、望みどおり、桜咲く春のころに旅を終えたという。
永遠に響く「無常」の余白
『平家物語』を私たちが今も読むのは、 その中に“美しさ”と“無常”が、深く根を下ろしているからだ。
西行は、その両方を生ききった。
だからこそ、彼の存在は、物語の外にありながら、 もっとも核心に近い場所で、すべてを見届けていたのだと思う。
私たちもまた、何かを得て、失って、 やがて「終わりの時」を迎える。
その時に思い出したいのは、
願はくは 花の下にて 春死なん
という祈りのような言葉であってほしいと願ってやまない。
吉祥礼
