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自己紹介〜私の半生は挫折からの学びの日々(其の3:下向編)

SEとしての仕事はやりがいもありましたが、同時に身体はどんどん蝕(むしば)まれ悪化していきました。仕事と生活のライフバランスがメチャクチャだったのです。

私は睡眠時無呼吸症候群と群発頭痛という2つの病を併発し、そのなかで生きる道を模索しました。心を鍛えようと、空手を始めたりもしました。

30代も半ばに差し掛かった折、娘が誕生しました。そして実家の事情もあり、私は茨城県の実家のある日立市へ、Uターン転職することになったのでした。そして私はうつ病になっていくのでした。

睡眠時無呼吸症候群と群発頭痛による挫折

趣味が華やかだったのとは裏腹に、私の体調と健康はひどい状態に陥っていました。

慢性的な肉体の疲労と肩こりと頭痛と眠気。30代前後にして、私の身体はどうしようもない状態となっていました。この時、唯一の救いとなっていたのはマッサージ師のY先生です。Y先生とは歳も近く、とても仲良くさせていただきました。

また先生の高い技術で、何度も身体を改善させていただきました。先生には何度お礼を言っても足りないくらいです。

仕事中に強い眠気に襲われてしまう。私の業務においてこれが非常に問題となってきました。悪気はないのに、ウトウト居眠り。

直属の上司に注意され、ついには社長の耳にも入って注意を受けてしまいました。仕事への意欲は高いのです。なんとかしなくてはいけないと必死に考え、対策をネットで調べました。

また同時期に妻からも、いびきが非常にうるさいと指摘を受けていました。これらを考慮して考えられるのは、睡眠時無呼吸症候群ではないのかという仮説に至りました。

早速、行動あるのみです。水道橋にあるクリニックに1泊入院し、睡眠時の状態を検査してもらいました。

結果は睡眠時無呼吸症候群でありCPAP(寝ている間に専用のマスクをつけ、外気を取り込み加圧した空気を鼻から送り込むことで、睡眠中の無呼吸を防ぐ機械)を着用することを推奨しますというものでした。

この日から現在に至るまでずっと続いている、月に1回の通院、5000円の診察と機材のレンタル料、毎晩の睡眠時のCPAPの着用という生活が始まることになりました。

なお、私の場合は鼻や喉や骨格の造りから、いびきが出やすい、無呼吸になりやすい体質であるとのことで、ダイエットをして痩せてもCPAP着用は解除されませんでした。というわけで、痩せた今でも状況は変わらず、CPAP生活は続いています。

またこの頃、深刻な頭痛が頻繁に私を襲うようになりました。激しい痛みです。それはもう死んでしまったほうがマシなのではないかという激痛でした。

目の奥をアイスピックでグサグサ突かれるようなと言いますか、かならず片目どちらか、痛みの始まり予兆としてはとして、鼻水や涙が出てきて止まらなくなります。そして立っていられない、のたうち回りたくなる痛みが2時間ほど襲ってきます。それが1日に1~3回、数ヶ月間続いて小休止、また数カ月後にぶり返してというスパンを繰り返し続けました。

最初は、頭痛なので脳神経外科に行って検査をしてもらいましたが異常なし。

マッサージに通っても、効果なし。

歯に問題があるのかとも思い、歯科医に行きましたがこれも問題なし。

八方塞がりの状況で、必死に原因を探る日々が続きました。

仕事は、とてもじゃないですがまともにできる状況ではありませんでした。出勤して、痛みが来てしまうとそこで2時間は仕事ができずに医務室行きなのです。これ以上、周囲に迷惑はかけられない。仕事を辞めることも、真剣に考えました。

そんなある日、群発頭痛という珍しいタイプの頭痛があることをネットで知りました。その症状が、まさに私の症状と符合したのです。

映画ハリー・ポッターの主演のダニエル・ラドクリフ氏もこの頭痛に悩まされているとのことでした。不謹慎ですが、世界にこの頭痛の痛みを共有できる人間がいるのだと知って、少しホッとしたことを記憶しています。

早速、群発頭痛に詳しいクリニックを新宿に見つけて、診察を受けました。そこで2つのタイプの薬を処方してもらいました。ひとつ目は鼻の中にプシュっと液体を吹きかける点鼻薬、ふたつ目は注射タイプのもの。

どちらも片頭痛にも効果のあるイミグランという液薬を接種するもので、注射タイプのほうが即効性と効きが強力とのことでした。値段は高価で当時、3割負担でも点鼻薬が1回分で500円、注射が2000円しました。なお、現在はもう少し安価になっているようです。

薬は効果がありました。点鼻薬の方は、中程度までの初期段階での痛みで、対処できれば8割程度の確率で効いて、痛みを半分以下(十分我慢できる程度の痛み)に軽減できました。

注射の方はほぼ100%の確率で、5分程度で痛みをほぼ無しにまで抑え込むことができました。副作用としては、心臓が少しキュッと締め付けられるような感じと、酷い倦怠感がありました。

死ぬほどの激痛、それが抑え込めるようになって人生に少し光明がさしました。毎月、薬代で数万円が飛んでしまうようになったのは、痛かったのですが背に腹は変えられませんでした。

空手道場への入門と娘の誕生

頭痛と睡眠トラブルに光明がさし始めました。私は31歳になっていました。

31歳になったことで心に思うところがありました。もっと精神的にも肉体的にも強くなりたいと思うようになりました。そんな折、柿生駅から自宅への帰り道に、空手道場の道場生募集のポスターが貼ってあったのが目が止まりました。

ひと月ほど悩んだ末、思い切って入門してみることにしました。道場の先生は私より2歳年上の男性で、身長は私と同じ173センチくらい、ゴツい体格の人物でした。しかし性格は知的で論理的で、物腰の柔らかい方でした。

当時の成人部(一般部)は15名くらいの生徒さんがいました。道場で一番強く印象に残っていること、それは何と言っても先生の強いのなんのということです。彼は全国クラスの大会で何度も優勝している猛者で、先生の強さを慕って他流派の強い指導員が何人も出稽古にやってくるという活況ぶりでした。

この空手道場では多くのことを学びました。空手以外の人生の様々なシーンで役立つ気づきがありました。いくつか例を以下に挙げてみます。

  • 結果を出す人間はやはりすべからく陰でコツコツと努力と工夫をしている。
  • 優勝する人間は優勝するなりの努力と工夫を、一回戦突破を目標としている人間はやはりそれなりの努力と工夫をしている。
  • 一時的に強くなる人間や入門時にすでに相当強い人間もいるが、結局のところ長期的には地道に平均的に努力する人間の方が強くなる。
  • 強くなった人間も稽古を怠ければただの人に戻る。
  • 年をとっても身体が弱い人間でも、稽古を積めば人は強くなれる。

36歳のときに娘が誕生したため、育児で休会、そして茨城への転居のため退会となってしまいましたが、道場で汗を流し、苦楽をともにした道場生の方々とは、今でもSNSやLINEで交流のある方もあり、私の交友関係の貴重な財産となっています。

2015年の10月の寒い日、ついに娘が誕生しました。36歳、子供が授からずいろいろな苦労の果に生まれてくれた娘でした。

そして私の人生にも変化が訪れました。実家の祖父(当時、96歳)から、実家に戻ってくれるようにと頼まれたのです。何度も手紙で、Uターンを頼み込まれたのでした。祖父には恩もあり、肉親でもあり、私は断ることができませんでした。

会社や職場の大学、空手道場にも事情を説明し、茨城に帰る準備を始めました。半年ほど転職活動を行い、運良く地元の茨城県日立市で社内のシステムエンジニアという境遇で雇用してくださるという企業と出会いました。10年ちかくお世話になった、思い出深い、大好きな、神奈川県川崎市麻生区柿生の地に別れを告げるときがやってきました。でも、この時はまだ知る由もありませんでした。これからが地獄の始まりだったのです。

地元茨城県日立市にUターン転職とうつ病による退社

日立市にUターン転職という形で、10数年ぶりに戻って来ました。実家から2kmほどの場所に、3LKの間取りのアパートを借りました。

私はそこから徒歩とバスを利用して40分ほどかかる道のりを通勤することになりました。社内SEという仕事はいわば、社内お抱えのITの何でも屋という立ち位置の仕事でした。

主な業務内容は、社内のシステムの開発や保守を行う仕事と、社員のPCの保守を行う仕事、会社のWEBサイトやファイルサーバなどを保守する仕事の3つからなっていました。

新しい仕事に挑戦する意欲に湧いていた私は、よし!やってやろうと意気込んで仕事に臨みました。しかし、その頑張りも長くは続きませんでした。頑張りが続かなかったというよりは、むしろ頑張ろうとしたけど精神がもたなかったという方が正しい表現だったかもしれません。

業務時間は過去のどの仕事にも増してタイトでした。朝の7時頃出社して、30分ほど昼の弁当を食べて休憩、夕方の6時ごろ退社。

拘束時間はさほどでは無いかもしれませんが、時間内で求められる成果のパフォーマンスが非常に高いものでした。汗水垂らして必死に食らいつき、仕事を終わらせようとしますが終わらない。全然、時間が足りませんでした。

どんどん案件が降って湧いてくるのですが、こなしてもこなしても終わらない。

特にPCインフラ系の仕事で労働集約型の作業内容が多いため、人間の労働力への依存度が高く、お金や機械・設備への投資よりも、人間の手による仕事量が圧倒的に多かったのが主な原因でした。

ITと謳っている部門なのに、全く人海戦術でアナログ、スポ根文化が蔓延する場所でした。また直属の上司の方が、そういった文化を好む方だったため、またそのことに意を唱えることも許されないような空気もあったのです。

私はすっかり参ってしまいました。ただでさえ時間が足りない。しかしまたそれを叩かれる、そして不慣れな職場環境に、ガチガチのパワハラ上司、それらが負のスパイラルとなり私を追い込んでいきました。

新しいシステムに使う言語を学ぶ余裕もなかなか作れませんでした。対応しなければならないノルマは積み上げられ無くならない。窮すれば鈍する。

少ない人員のため手際よく仕事を誰かに振り分けることもできず、スポ根風土のため手作業が多く他社へ業務を委託したり、システム化された仕組みに任せることもできずに、ただいたずらに私のノルマと上司の叱責は増えるばかり。

結果として私はうつ病になってしまいました。

ある朝、布団から起き上がれなくなり、そのまま2ヶ月ほど仕事を休みました。症状は全く回復せず、二度とその会社の職場には復帰できませんでした。

これは無理もありません。復帰してもまた例の環境が待っているだけなのですから。私は仕事を辞める決断をしました。

子供もいたため悩みましたが、辞めました。仕事から逃げました。収入が途絶えることの金銭的な不安というリスクより、今を生き延びる道を選びました。それほど私は追い詰められていました。

精神病院に通院し、うつ病の治療が始まりました。かなりの数と量の薬を毎日内服しました。

薬の副作用のためか、ブクブクに太ってきました。個人的な意見ですが、これらの薬がどれほど効果があったのか、実感はありません。頭はぼーっとして、気力も生まれず、無意味な時間がただただ流れていく、そのような自宅療養の日々でした。

半年ほど過ぎ、収入も途絶え金銭的にも、いよいよ厳しくなって来ました。おかげさまで薬の量は半分ほどになっており、ハードな仕事はわかりませんが、買い物などで外に外出しても問題ない程度には、体調も戻って来ていました。

私は決意して体と心に鞭を打って、次の再就職先を探しました。

次の会社は大きな川を越えた隣村にある、小さな新興のIT系企業でした。車で片道、1時間と少しかかりました。アパートの近くに駐車場を契約して、車で通勤することになりました。

うつ病の悪化、精神状態のどん底を味わう

今度の仕事のメインはVBやC#という言語でした。東京の職場ではいろいろな言語やアプリを使った偏ったスキルを持った人間でも活躍できる仕事があったりするのですが、地方ではそれを期待するのは難しいのが現実です。これらの言語は業務システムの開発を生業とするプログラマとしては、王道と言っても良いものだと思います。

ですから多くのプログラマにとっては馴染みのあるものなのですが、私のようにAccess一本足打法でやってきた特殊な偏った人間にとっては、とても苦労する言語となりました。

私の仕事に対する危機感のなさと、勉強不足、怠慢が招いたピンチでした。20代の頃からコツコツ、これらの言語をしっかり余暇の時間で勉強していればよかったのですが、何を言っても今更です。

この時、私は現状にとどまって満足してしまうリスクを痛感しました。大きな失敗と後悔でしたが、これは現在の私にとって貴重な教訓となりました。

職場で外に出た時、社外で一緒に働いた方から「伊藤さんはマイペースな人(つまり自分勝手な人)」だという評価をいただきました。

それまで私は自分は周りの顔色ばかりうかがっているタイプだとばかり思っていたので、そのような評価に内心びっくりしました。当時はショックを受け、そんなことはないと否定したい気持ちでいっぱいでした。

しかし数年たち今となっては他人の客観的な評価は、自分が見えていないだけで、あながち間違っていないのではないか、否定せずに良い方向で受け入れるべきなのではないかと思うようになりました。

これを自分の長所的な個性と捉え、マイペースで自分勝手に生きられる仕事を選んだほうが、自分を活かせる仕事ができるのではないか、そのほうが自分もサービスを受ける相手も幸せになれるのではないかと思い直すようになった次第です。

話を会社の仕事に戻しますが、メインではないのですが、EXCELのマクロやVBAでのプログラミング作成や会社のWEBサイトのメンテナンスなどの仕事も行いました。これらの仕事は、私に向いているのか、とてもやりがいを持って取り組むことができました。

しかし会社の仕事はそんな楽しい仕事ばかりが、都合よく廻ってくるわけではありません。

ある日、社長と幹部の方々に呼ばれて、C言語のプロジェクトに主力の一人として参加してみないかと、打診を受けました。

正直私は、この業界に入ってC言語を本格的に学んだことがありませんでした。それでもなにか新しいことに挑戦しなければ、先細るばかりだと、また会社での評価も下がってしまうと考えた私は、思い切って打診を快諾しました。

これが結果的に、私をIT業界で再起不能にするといいますか、良い意味で捉えれば、引き際の引導を渡してくれる契機となりました。

それから3ヶ月ほど、毎日毎日、業務時間以外は夜遅く、そして早朝にC言語の学習に明け暮れました。必死でした。少しでも早く技術を向上させたいと焦りもありましたし、勉強すれば不慣れなことも必ず打開できると信じて努力しました。

しかしその甲斐はなく、現実は無情でした。数ヶ月を経ても私は思うような結果を残せず、スキルや理解のレベルアップも、上司の方々の思いに見合うものには程遠い有り様でした。

私の努力が通用しない、私はプログラムに向いていない、才能がない、センスがない、こんなあたりまえのことをIT業界に潜り込んで10年以上かかってやっと私は理解しました。私はある程度以上の能力を持ったプログラマにはなれない。力量不足、そして適性がない。今後も職業プログラマとしてとして食べていくには不向きであるとことを痛感しました。

愕然としましたが、かえって悟りというか諦めがつきました。

しかし、頭ではそのように理解できましたが、心と身体はそう単純に割り切ってくれなかたようで、また私はある朝、布団から起き上がれなくなりました。

うつ病が再発、悪化したのでした。このまま中途半端に会社に在籍しつづけては、先方にも迷惑だろうと考えました。私はまた、会社を辞める決断をしました。

そしていよいよこれで、いわゆるプログラマやシステムエンジニアというIT系の専門技術職からは足を洗おう、諦めようと決心をしました。

会社を辞職し、うつ病とのお付き合いがまた始まりました。

しかし、つぎに何にをやれば良いのだろう。頭に全くつぎの仕事が思い浮かびませんでした。不安ばかり、まさに五里霧中。

妻や子供の前では明るく取り繕っていましたが、内心はとても絶望的な気持ちになりました。

自己紹介〜私の半生は挫折からの学びの日々(其の4:再生編)

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