霊的な被害を訴える声の中には、泣き寝入りを強いられている人々がいる。
彼らを追い詰めたのは、“救い”の顔をした加害者たち――名ばかりの霊能者。
審神者は、霊のせいにして終わらせることはしない。
これは神意ではなく、社会と法が裁くべき問題である。
はじまりは一本の相談DMから
ある日、吉祥礼のもとに一通のDMが届いた。
「ある術者に術をかけられて以来、精神的に不安定になり、不眠症が治らない。どうすればよいか」という内容だった。
普段なら、こうした曖昧な案件は他にあたってもらう。
だが今回は、霊的ではなく社会的責任の問題であり、審神者として明確な回答をすべき案件だった。
術者本人に“解かせる”のが原則
まず結論から述べるならば、こうした霊的な問題の最善手は、術をかけた本人に責任をとらせることである。
霊を祓う、除霊する……その前に、
加害者本人に「術を解かせる」「責任を認めさせる」ことが第一段階である。
霊的問題を霊的手段だけで対処しようとすれば、必ず袋小路に入る。
なぜなら、そこに“加害”という事実が抜け落ちてしまうからだ。
加害者に法的責任を問うべきである
精神的に病ませるような行為、明確に術をかけると“告知”したこと。
これらは日本の刑法においても、十分に傷害罪・脅迫罪が成立する可能性がある。
- 傷害罪:精神的苦痛も“傷害”に該当しうる(判例あり)
- 脅迫罪:害悪の告知により畏怖させた時点で成立(刑法222条)
こうしたケースでは、弁護士に相談し、正式な訴訟手続きを取るべきである。
慰謝料、治療費、名誉回復。 いずれも法的に正当な手段によって勝ち取ることができる。
霊能者同士の“応酬ごっこ”には意味がない
「除霊してもらったけど、また悪くなった」 「他の霊能者に頼んで祓ってもらった」
このような応酬を繰り返すのは、例えるならばゴミ箱の蓋を開け閉めしているようなものである。
根本的な加害者が責任をとらず、第三者が表面だけを掃除しようとする。 そこに解決はない。
霊的問題に名を借りた、社会的犯罪は、社会の光の中で裁かれるべきである。
自称霊能者への審神者の姿勢
審神者は、祓いの技術者ではない。
真理を見抜き、魂の道を守る者である。 だからこそ、“霊のせい”にして人を操り、恐怖を煽り、金銭を巻き上げる者には毅然と対処する。
- 社会的責任を問うこと
- 法的手段を講じること
- 再発を防ぐため、訴訟記録を公開してでも闇に光を当てること
これらはすべて、“霊的浄化”ではなく、“倫理的祓い”である。
結びに:霊を祓う前に、社会を正す
もちろん、すべての問題が法だけで片付くわけではない。
術が解けぬなら、審神者として次の手を打つこともある。
だがそれは、「社会的責任」が果たされた後の話だ。
魂を救うというのなら、まずは加害者に対して、明確な責任を取らせよ。 “救い”を口にする者が、人を病ませるような術を使った時点で、それは“巣食い”でしかない。
正義とは、冷静な光である。 審神者の眼は、神意と共に、法の正義も見つめている。
――審神者・吉祥礼