ページ内にてアフィリエイト広告を利用しています。 自己紹介

自己紹介〜私の半生は挫折からの学びの日々(其の2:上京編)

大学を卒業しました。私はどうしても一度、東京での生活というものを経験していたいと考えていました。

たまたま就職先の配属が東京になり、私は奇しくも上京を果たすことができました。以降、10年以上に及ぶ、職場が東京で住居が神奈川という生活が続くことになりました。

さまざまなやりがいもあり楽しい思い出もたくさんありますが、しかしまた体調不良と病気との戦いの日々の始まりでもありました。

家電量販店の販売員からIT系の仕事への転身

大学生時代、コンビニでバイトをしていたので接客業や小売業には多少の慣れがありました。また、映画部のデジタル化に際して動画編集を独学で学んだのをきっかけに、PCやデジタル家電への造形もそれなりに深くなっていました。

教員になるという進路はどうしたのかというと、スッパリ諦めました。教員免許を取得するには教育実習というのを通過しなければならないのですが、私はそれを経験して、先生としてやっていくのは私には厳しいかなと思いました。

まず、仕事の内容が過酷であること。次に大学の講義も真面目に受けてこなかった中途半端な人間の私が、子供たちの将来を左右する教鞭をとって良いのだろうか、いや良いわけがない、と勝手に思い込んでしまったことが理由です。

これは、低いモチベーションでやって良い仕事ではないと。やっても良い結果にはならないだろうと思いました。そこで他に自分がやれる仕事は無いかと考え、出した結論が家電量販店の販売員でした。

2004年当時、家電量販店の業界は非常に活況でした。どんどん、全国に大型店が林立して、ものすごい勢いがありました。(それからわずか10年余りでAmazonなどにシェアを大きく奪われて衰退してしまうのですが、当時はとにかくイケイケの雰囲気でした)

私は当時、大手の代表的な企業だった会社に新卒で入社し、上京し二子玉川の近くの用賀の店鋪に配属されました。住まいは、溝の口ちかくの久地という小さな駅から200mほどの距離にある、小さなアパート。

さっそく近くの大きなスーパーで安いママチャリを購入、通勤や買い出しの足としました。勤務はとても過酷な内容でした。実は配属された店舗は、全国の店舗でも1~2を争う売上を誇る激務店だったのです。

朝の7時半に店舗出勤、朝の掃除、品出し、朝礼、開店準備、朝の10時に開店。昼の休憩は多忙のため30分。20時に閉店、そのあと閉店後の清掃と簡単な棚卸しやレジの点検などで、業務が終了するのはいつも22時過ぎでした。

電気屋さんの定員なんて接客以外は、暇そうに突っ立っているだけではと傍からみると思うかもしれませんが、意外とこれが多忙なのです。

接客販売以外にも、品物の補充、ライバル店に出向いての価格調査、商品の個人宅への宅配、他店との商品の融通、メーカー営業さんとの交渉や打ち合わせ、店舗の清掃や倉庫の整理、商品入れ替えに伴う店舗ディスプレイの定期的な変更、レジ業務、発注や在庫管理、etc、もうてんこ盛りでした。

また販売員なので当然、売上ノルマもありました。ノルマ達成のために不本意な商品を、お客様におすすめすることもありました。これは内心、かなりキツかったです。

これらを毎日こなして、帰りに食事や買い物をして自宅のアパートに戻るのは24時前後、そして就寝は深夜1~2時頃でした。睡眠時間は毎日4時間ほど。休日は月に7~8日程度。こんなハードワークを新入社員がいきなりやっていたわけですから、当然そのしわ寄せは心と身体の両面に如実に蓄積されます。

あっという間に、心身ともに悲鳴を上げました。はっきり言います、無理でした。いくら給料が良くても自分には無理でした。根性なしと思われる方もいるかも知れませんが、私はこのときはお金より、心身の健康を選択しました。自分を守ることを最優先としました。

店舗配属から3ヶ月後、同期入社のN君と同時期に辞表を提出。仕事を辞めました。これが会社を辞める初めての経験となりました。まさかこの後、何度もこの会社を辞めるという経験を私がすることになるとは、この時は思ってもいませんでした。

会社をやめた後、3ヶ月間休養をとりました。今思い返してみると、この仕事のことを考えない休養期間は、私の人生でも最も楽しかった時間のひとつとなりました。

この間に、引っ越しをしました。小田急線の柿生駅という各駅停車の駅から、徒歩20分ほどの場所にある団地の築40年のアパート。3Kの間取りで家賃は6万円。坂を登った台地の上にありました。私はその場所をとても気に入り、以後10年以上その物件で暮らすことになりました。

気力体力の回復を図り、だいぶ体調も良くなったのでハローワークで再就職の活動を11月頃に始めました。家電量販店時代、一番得意なことはPCの販売でした。しかしまた同じ小売業界に行くのは気後れしたので、他の業界にチャレンジしてみました。

そこでPCに関連する何かということで、IT業界の事務員ということでハロワで見かけた募集に挑戦してみることにしました。面接先は人形町にあった小さなIT起業でした。

面接の際、事務員ではなくプログラマ見習いという身分なら採用するのだがと提案をしていただきました。就活を長期間するのはキツイなと思っていましたので、背に腹は変えられません。

プログラマ見習いということで採用していただきました。こうして理系ではないのですが、むしろバリバリの文系だったのですが、プログラマ兼SEとして生活をしていくことになったのでした。

社内研修を2ヶ月ほど行いました。研修の成果ですが、プログラムの知識はボロボロでした。エクセルのマクロやVBAが多少いじれるようになった程度。

そして、初めての出向先は東陽町となりました。そこでライブラリー管理という仕事を半年ほど行いました。大きなシステム開発の中で各プログラムの進捗とバージョンを管理する仕事です。

プログラマとしてのスキルをみがける仕事ではなかったのですが、見習いとしてIT業界の雰囲気を掴むことができる仕事でした。仕事はハードでした。心理的なストレスは少ないのですが、拘束時間が非常に長かったのです。

終電では帰れず、職場近くのスーパーで半額のお惣菜を買って、そのまま漫画喫茶に泊まって、翌朝7時ころに起きてそのまま出社ということもよくありました。

しかし、職場の人間関係には恵まれました。上司に当たる方々には良くしてもらいましたし、また、職場にいた東大卒のフランス語を操るフリーランスのSEのN澤さんには、特に目をかけて可愛がってもらいました。

私はここで初めて彼からフリーランスという働き方を学びました。その働き方の自主的で主体的な姿勢、そして自由な空気と金銭的魅力に大いに驚きとカルチャーショックを受けました。

当時の私は自分にはフリーランスなんて無理だと勝手に思っていましたが、確実に私の脳裏に彼との出会いは、自由な仕事も世の中にはあるのだという可能性の種をまいてくれたのでした。

ここでの仕事中、私の体に異変が起こり始めていました。仕事中に急に眠くなるのです。居眠りしてしまうのです。どう頑張っても駄目でした。当時の私は睡眠不足のせいなのかと思っていましたが、後にわかることですが、これは睡眠時無呼吸症候群という体質というか病気でした。

大学生の頃までは、徹夜の2~3日も平気でしたが、そういった無理がもう効かない身体になってしまっていたのでした。私がそれに気がついて、真剣に向き合うのは数年後になってしまうのですが。

半年間、東陽町の仕事につきましたが、スキルアップのために他の出向先に移らないかと社長から声がかかりました。私は多少ためらいもあったのですが、経験のために次の場所へチャレンジすることにしました。季節はすっかり夏になっていました。

某有名私立大学にシステムエンジニアとして10年携わる

つづいて仕事場になったのは某有名私立大学でした。最初は想像もしていませんでしたが、これが実に運命的な出会いとなり、以後通算10年のも及ぶ仕事上でのお付き合いとなりました。

仕事には相性と巡り合わせというものが、どうしてもあると感じています。私が10年もこの仕事に携わってこれたのは、もちろんお客様である大学側職員の皆様と私の上流にあたる会社の上司に当たる方が、ありがたいことに私に一定の評価をしてくださったこともあると思いますが、私とその大学の空気が合ったことが、やはり最大の要因ではないかと思わずにはいられません。

私がここで学んだ仕事のスキルは主に、SQLサーバのデータベースそしてAccessをフロントエンドとしたVBAによるシステムの開発でした。

ちなみにSQLサーバーはMicrosoft社の業務用のデータベースシステム、そしてAccessとはデータを入力したり更新したりする画面、そしてその背後で入力したデータを管理するデータベースをパッケージしたアプリケーション。プロフラマとしてスキルをあげていくのでしたら、JavaやVBを学ぶかもしくは、その他のWeb系の言語に強くなるのが定番コースなのではないかと思います。

そういう意味では私のスキルは特殊でニッチでした。しかし故に習熟すれば、初心者でたいしたプログラム学習の背景も持たない私のような人間でも、戦力として通用してしまうチャンスがありました。

ある意味運が良かったのです。またAccessというものは私の性格や個性と相性が良かったのかもしれません。私はAccessを習熟し、次第にプログラマ兼システムエンジニアとして、そこそこの力を発揮することができるようになりました。

大学では、奨学生の情報管理、卒業生の情報管理、募金の情報管理、学外の一般社会人むけの授業の受講者管理などのシステムの開発・保守を行いました。仕事は相変わらずとても忙しく、困難も数多くありましたが、しかし職員の方々やパートの方々との交流の日々は大変、心のこもったもので素晴らしいものでした。

大変良くしてもらい、可愛がっていただきました。私も毎年、バレンタインのチョコレートを職員の方やパートの方々にお配りしたり、また私の娘が生まれた際は、娘の誕生祝いのプレゼントを頂いたりもしました。

これらの交流は、今でも私の大切な良い思い出であり、大きな心の財産となっております。また大学の施設はとても充実しており、生協や食堂(なんと食堂だけで6店舗も林立していました!)も豊富でとても楽しい職場でした。

娘の誕生後、私の実家の事情で茨城県日立市に戻らなくてはならなくなってしまった為、こちらの仕事を辞し転職することになるのですが、職場の直属の上司(現場をよく率いてユーモアや人徳もあり、とても立派な方でした)や仕事仲間にも恵まれ、この10年間は、振り返ってみれば仕事として大変楽しい時間を過ごすことができました。

本当に感謝しております。

しかし、この10年間の間、良くも悪くもAceess1本足打法でスキルを磨いてきてしまったことが、のちの人生で大きな仇(あだ)となってしまったのでした。

正直に言えば、良い環境に甘んじて、自分の外側に挑戦しようとせず殻に閉じこもってしまった、10年間もの間、成長するための他のプログラムやスキルへの準備、勉強を怠ってしまったことが結果として、命取りとなってしまったのでした。

ファッションと自転車とイヤホンに対するこだわり

大学での仕事をしていた10年間。私生活では、ファッションと自転車という趣味を見出し大いにハマりました。

この間の体調の変動は実にひどいものでした。体重などは、酷いときは100Kgオーバー、意を決してダイエットをして65Kgにサイズダウン、そしてリバウンド。こんなことを何度も繰り返しました。

まさに体重増減のジェットコースター状態でした。

当時は睡眠不足や仕事のストレス、また若気の至りで食生活で暴飲暴食を繰り返していました。毎日外食やコンビニ食でした。当時はやっていた食べ放題(バイキング形式)も影響が甚大でした。こんな食生活では体重が100kgオーバーになってしまうのも無理はないのです。

さすがに危機感を感じた私は、ダイエットを決意しました。

その時ふと書店で立ち読みした本が自転車でのダイエット本でした。当時、自転車(特にクロスバイクやロードバイクといったスポーツ車種)に乗って通勤する芸能人や著名人、ブロガーの記事が世間の注目を浴び始めていました。

私もそのブームに乗りました。5万円くらいのクロスバイクを購入。そして乗車してみて、そのマカチャリとは雲泥の差の乗り心地、スピード感、軽快さに魅了されてしまいました。ハマってからはイッキでした。

なけなしの貯金をはたいて、20万円ちかくのロードバイクを購入。雨天以外の毎日の通勤(片道16キロ)約1時間を数年続けました。体重は半年ほどで65Kgまで落ちました。つまり35Kgほど減量できたことになります。

ダイエットの効果は絶大でした。そして、ダイエットに成功した私が次に熱中したのがファッションでした。

私はそれまで、ファッションには本当に無頓着でした。学生の頃は親が近所のよくわからないスーパーやホームセンターで売っている服を、何の疑問も持たず着て生活していました。

社会人になってからも、普段着はスーパーの衣料品コーナーの安売り品、仕事着はコナカや洋服の青山のセール品を何も考えずに着用していました。そもそも、太っていたので服にこだわる余裕も選択肢もほとんどなかったのでした。

それがダイエットの成功で状況が変わりました。そしてある日、妻が買ってきてくれた本(ドン小西さんが書いたYシャツの本)を読んだことがターニングポイントになりました。

Yシャツは綿100%が良い、また綿100%はアイロンが大前提、それらのシャツはシャツの専門店に売っているなどの情報が、その本には記されていました。

これは面白いと思ったことに対する行動は、生来速いほうだと思います。すぐにネットでシャツショップを調べると、鎌倉シャツというのが比較的低価格で良い品質のシャツを販売しているとのこと。さっそく町田市の店舗に電車で赴いてシャツを購入。

その着心地にすっかり魅了されてしまいました。自転車もそうでしたが魅了されると、ドンドン行ってしまうタイプなのかもしれません。

その後は、ブルックスブラザーズやオーダーシャツのお店にも行ってシャツを購入するようになりました。シャツに興味が湧き始めると必然、スーツやカバン、靴にも興味が湧いてきてしまうものです。

スーツもオーダー、コートもブランド品、靴も専門店で海外ブランドもの、仕事カバンも本革のダレスバックやボストンバックやアタッシュケース、帽子にもこだわり、時計にもこだわる、しまいには普段着もモンベルやノースフェイスなどの有名アウトドアブランド。

週末の休みは妻と、アウトレットショップやセレクトショップ、デパートや古着屋を巡って過ごすというのが定番となりました。

今思うと、その情熱は凄いのですが、それに伴う金遣いの粗さは我ながら目を覆うばかりの酷さだったと思います。

その頃は、稼いだお金は食費とファッションとエンタメ代と家賃で殆ど使ってしまっていました。資産を築くなどという考えや思いは全然微塵も持っていませんでした。

ちなみに、今は服や靴や時計は必要最低限の数のみ、またメンテナンスが楽なものしか持たないようになりました。自転車もロードバイクやクロスバイクは処分し、利便性のある電動自転車がひとつあるのみです。

必要な数だけを持って使う効率重視、使えてなんぼの実用性第一主義に私自身も心変わりしたということです。

さて、もうひとつ私がハマったのはイヤホンでした。

当時、電車やバスで移動する際に暇を持て余していたので、たまたまソニーのウォークマンを購入したのです。その音質の良さにビックリしてしまい、またもやハマってしまいました。ノイズキャンセリングイヤホンが標準で付属していて、見事にそのソニーの販売戦略にやられてしまいました。

イヤホンをもっと良いものに変えたら、どんな凄いことになるのだろうという興味で頭がいっぱいになりました。頻繁に、ヨドバシカメラのイヤホンやヘッドホンコーナーに視聴に行くようになりました。

俗に言うイヤホンスパイラルというやつです。

妻にオーダーメイドのイヤホンをプレゼントし、10万円近くする高級ヘッドホンを購入するところまで行きました。しかしこれも今では、そこそこ高性能のイヤホンを最小限の数だけ持つというスタイルに変化し、落ち着きました。

耳は左右ひとつずつしかないのです。服も自転車もイヤホンも数ばかりあっても、効率よく使えなければ意味がないというのが、今の私の考えです。

恐縮ですがあとひとつ、ラジオにもハマりました。都会は地方と違って様々なライオ放送局の電波が入り、それがたまらなく楽しかったのです。

いろいろな電波をキャッチして高音質で聴くために、いろいろなラジオ機種を購入して楽しんでいたのですが、時代は4G、5Gのスマホ時代へと変遷していきました。Radikoのサービスも充実してきて、スマホで十分事足りるようになり、結局ラジオは今ではすべて処分してしまいました。

自己紹介〜私の半生は挫折からの学びの日々(其の3:下向編)

SEとしての仕事はやりがいもありましたが、同時に身体はどんどん蝕(むしば)まれ悪化していきました。仕事と生活のライフバランスがメチャクチャだったのです。 私は睡眠時無呼吸症候群と群発頭痛という2つの病 ...

-自己紹介