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自己紹介〜私の半生は挫折からの学びの日々(其の4:再生編)

うつ病で職をなくし途方に暮れていた私は、株の売買で利益を狙う個人トレーダーになりました。初めは順調に資産を増やしていたのですが、所詮はビギナーズラックだったのでした。

ある日、巨額の損失を出してしまい、この職業に対しても自分は向いていないことを痛感しました。

自分に適正のある仕事とは何なのでしょうか。

病魔による入院と手術を経て、自問自答の末に自分が苦痛を感じない作業を仕事としてやっていこう、短期目線ではなく、長期的な展望に立ってコツコツ仕事をして社会に貢献していこうと、私は決意するに至りました。

個人トレーダーとして再起を図るが失敗

何日も何日も、暗い深い水の中に沈んでいるような心境がずっと続きました。寒くなってくると石油ストーブに点火して、その炎をずっと眺めていたりしました。

炎を眺めていると何故か心が落ち着くのです。しかし、このままではいけないな、稼がないと生活できないなとは当然思うわけです。学生時代は教育学部にいたので、社会の先生の教員免許を持っていた手前もあり、教育関連の仕事はないかと、面接を受けてみたこともありましたが、うつ病を経験していることと、年齢的に40歳を過ぎていることが主な理由で、結果は芳しくありませんでした。

つまり、不採用です。

これは困ったと思いました。アルバイトは別として今の私の条件(年齢とうつ病で何度か会社を退職している)ではもう、なかなか正社員としては就職できないのではないかと感づき始めました。特に日立市のような地方都市ではなおさらです。

心にひんやりとした冷たさを感じました。中年男性が会社を辞めるリスクと怖さをあらためて、リアルに実感しました。

しかし、なんとかして収入を得なければならない。そこで思案の末、株のトレードをやってみることにしました。

実は会社員時代から、NISAやiDeCoでインデックスの投資信託への投資だけでなく、少しだけ個別株や米国株、ETFなどの取引にチャレンジしていました。現物株だけの取引ですが、そこで毎月の小遣い程度の収益を上げていました。

これを本格的に、プロとして職業としてやってみようと思ったわけです。

まず、証券会社に信用取引の申請をしました。申請が通ると恐る恐る、信用買いでトレードを行ってみました。

信用買いで初めて売買したのは、ソフトバンクグループの株でした。理由は特にないのですが、なんとなく売買が活発でボラティリティ(変動率)の高い銘柄を選びました。

結果、あっという間に、時間にして1時間半程度で10万円以上の利益をあげることができました。そのあと、ビクビクしながら空売りにも挑戦してみました。また3日ほどで、10万円以上の利益をあげることができました。

今にしてみれば、ビギナーズラックというものでした。しかし私はすっかりやる気と自信をつけて、リスクのある信用取引での株の売買にのめり込んで行きました。

私の売買のスタイルは、俗に言うスイングトレードというもので、数日から数週間単位で選んだ株が下がるか、上がるかを予測し、上がるなら信用買いを行い、下がるなら空売りを仕掛けるという手法でした。

半年ほどで400万円ほどの利益をあげることができました。

そのあと、半年ほど休みをとり、また翌年の正月明けに売買をスタート。月に80万円以上の利益をあげ、私は段々といつもの悪い癖、慢心と傲慢さと虚栄心と有頂天が心にはびこってきていることに気が付かずに得意げでした。そして運命の2023年3月を迎えるのです。

3月も序盤の頃は、思い通りに近い値動きを相場は見せてくれていました。その時も、わずか数日で100万円近い利益を空売りで儲けることに成功した私は、つぎはこの株(その時も銘柄はソフトバンクグループでした)を大量に信用買いしよう、これからは上昇局面だと判断し、思い切っていつもより大きな枚数で信用買いのポジションをとりました。

数日間、株価は僅かな上下をくりかえし、そして徐々に思惑通りに上昇していきました。

しかし、利益が20万円を超えたあたりで、動きが止まってしまいました。そして、だんだん株価が下がり始めたのでした。

ここで私は、予想とは違う値動きが始まったのだから損切りをするべきでした。しかし私には、それができませんでした。じきに値はもどるだろう、多少マイナスになっても、大局的な私の予想に間違いはないはずだという、株で失敗する人間が誰でも経験する心理状態に陥っていたのでした。

そして、事態は最悪な方向へと一気に激流のように流れました。アメリカでシリコンバレーバンクという銀行が、危機に陥ってあっという間に破綻したという情報が世界中を駆け巡ったのです。いわゆるシリコンバレーショックと言われることになる事件でした。

この金融不安は、アメリカのIT企業のなかでも特にベンチャー系の企業にショックをあたえ、そしてベンチャー系の企業に数多く投資をしていたソフトバンクグループは、風が吹けば桶屋が儲かるの理論で株価が急落してしまいました。

私の含み損は数日で一気に広がり、追証をせまられる寸前まで追い込まれてしまいました。私は、その間も何も対処できず、そして追証寸前でやっと損切りを行うことができました。時すでに遅し、400万円近い損失をわずか数日で被ったのでした。

それまでのトレードであげてきた利益の多くを私は、この一発の損失で吹き飛ばしてしまいました。私はよくよく落胆しましたが、気持ちを切り替えて反省しなければと思い、自己分析をおこないました。そして反省の末、もう株のトレードで食べていくのはやめようと思いました。私は株のトレーダーには向いていないのだなと、やってみて実感したからです。

まず、いざとなった時に損切りできないタイプの人間であることがわかった点。そして信用取引のレバレッジをついつい大きくしていってしまう点。自己規律をあれこれ言い訳して、結局は破ってしまう。そこが特にまずいと思いました。

そして、株のトレードは昼夜問わず、そのことに全く頭がかかりっきりになってしまい、心身に余裕が持てなくなる点も良くないと感じました。

生活リズムや体調がボロボロになり、不眠になり、イライラしてしまう。頭痛は悪化し、負けているときはイライラが募り、その当てつけで家族へも辛く当たってしまう。

そんな日々を過ごし、こんな生活を続けていて幸せと言えるのだろうかと自問しました。また慢心でついハイリスクなギャンブルに熱くなってしまう性格は自分の悪い短所、そしてこれは改善できるものタチのものではないだろうなとも思いました。

日本株の信用取引は通常、6ヶ月以内に反対売買を行わなくてはなりません。損を出していても期限が来れば、強制的に買いでは入れば売りを、売りで入れば買いを行わなければなりません。そして最大3倍までレバレッジをかける事ができます。

つまり、儲けも3倍にすることができる反面、損失も3倍に膨れ上がることになります。これがどれほど恐ろしいことか、実際に信用取引をやってみて、損失を出してみないと、そして損失が3倍の速度であっという間に膨らんでいくのを体験しないと理解できないかと思います。

私も利益がプラスの頃は、その恐ろしさを理解できていませんでした。

だから信用取引を舐めて、大失敗してしまったのです。ここで、すっぱり損失を早期で損切りできる人間が、トレーダーとして生き残っていける人間の最低条件なのだと思います。

多く勝つ人間ではなく、少なく負ける人間が優秀なのです。その意味で、損切りできない私は、トレーダーとしての最低条件を満たしていなかったのです。

ここで私は現物取引の強みを認識するに至ります。

儲けの速度の遅い、買いからしか入れない現物こそが、攻守において逆に強かったのです。多くの人間は、早く多く儲けようとします。しかし、焦って功を急ぐものは、強欲で高レバレッジをかけたものは、相場の急な変動に振り落とされて、勝手におのずから脱落してしまいます。

多くの欲張りたちが自滅していったあとを、亀とうさぎの童話のように、ゆっくりゆっくり着実に歩む現物取引の人間、彼らだけが勝利します。何年、何十年先を見据えて、当初の損切りラインに届くまで決して損切りしない腰の座った長期投資の猛者ほど、手強い猛者だったのです。

その点ではインデックス(市場の平均値)をドルコスト平均法でコツコツ、少額ずつ定期的に購入していく方法が最も最強なのだと、愚かな私は、何度も何年も遠回りと勘違いをしながらようやく、相場との向き合い方の基本に気がついたのでした。

言い換えれば、個別の株を自分で選ぶのではなく、市場に出回る株式全体に投資する、市場で多くのものが勝つときは少額投資し、市場で多くのものが負けるときは大きな金額を投資する、それを機械的に繰り返す投資手法を実践すべきなのです。

株式の分散と投資タイミングの分散と投資量の分散、これを機械的にできるだけ長い時間と多くの金額を投じて実行するのが、最も遠回りだが負けない手法だったのです。

付け加えると、売買による利益確定の回数を減らすことは、その分の税金と手数料を支払う回数を減らすことに繋がります。その面から考慮しても、継続的にどこまでも長期的に、市場平均を買い続けるアプローチはパワフルなのだと思います。

以降、私は株の個人トレーダーは辞め、個別株は今はやるつもりはありませんが、もし将来的に保有する場合は、よく使う企業や応援したい企業の配当と株主優待狙いで長期保有だけに留めるようにしたいと思っています。短期売買はしません。年老いるまで、あるいは相続人に相続してもらうまで、ひたすら持ち続けるつもりです。あとは今後の資産形成でやる株式投資は、毎日、収入の2割をインデックス投資にすべてまわすことだけにしました。

不動産貸付業(大家さん)としての仕事

2023年に祖父が死去しました。104歳、老衰でした。そして続けざまに父親の癌が発覚しました。癌のステージステージ4でした。

父は開腹手術を試みましたが、手術で対処するにはもはや手遅れで、今後は化学療法で症状の進行を遅らせることに専念する治療方針となりました。2週間に1回、6時間の点滴を病院で受け、その後、自宅で2日間点滴を継続し、水曜日に点滴を外すというルーチンが父親の日課になりました。

私の家は僅かではありますが、祖父の代から個人事業主として賃貸貸付業(わかりやすく言えばアパートの大家さん)を営んでいました。

祖父の死と父のがんの発覚により、私がアパート経営を引き継ぐことになりました。祖父の死去から相続手続き、父の看病と父からのアパート経営の引き継ぎ、関係部署での諸々の手続き、市役所、税務署、裁判所、司法書士、弁護士、税理士と足繁く通いました。

特に税理士のK先生には本当にお世話になりました。そうして事業の継承をするべく奔走しているうちに、あっという間に1年が過ぎ去っていました。

それまでの私は、無職の状態だったわけですが、立場上は個人事業主ということになり、職業上は賃貸貸付業で収入を得る身となりました。これで収入の不安が一掃されたわけではまったくないのですが、私はわずかばかりの収入を得ることができるようにはなりました。

しかし、家族を養い、更には自分の資産を形成していく上では全く金銭的には不十分でした。

さらに両親は2人共生存しており、彼らの生活費も捻出しなければならないのですから、立場的には無職ではなくなったとはいえ、依然として他の収入源を得なければならない現実に変わり間はいのでした。

私は不動産貸付業を個人事業主として営みながら、他にいくつかの収入の道を柱を築くことを決心せざるを得ない状況に追い込まれました。

2023年の晩秋、こうして私は新しい人生に踏み出すべく、再起動を決意し、新しい仕事にチャレンジすることになったのでした。

胆のうの摘出と大腸ポリープ切除

2023年の3月に健康診断を受けて、胆のうに石があると指摘を受けました。

今のところ特に別段、自覚症状が出ていないのでそのまま様子を見ることになりました。それから少しの間は何事もなかったのですが、4月に入ったある日の夜、寝ていると胃の右横あたり、あとで分かった知識ですか、詳しくは肝臓の下辺りが、ものすごく痛くなり目が覚めました。

冷や汗、油汗が出てくる痛みです。突き刺すような痛みではないのですが、とにかく痛くて苦しくてしょうがない。しかし深夜、病院に行くかどうか、救急車を利用するかどうか、判断に悩みました。

あと少し、あと少し、我慢したら症状が改善されるかもしれない。そう思い、我慢しました。あと10分我慢して駄目なら、救急車を呼ぼうと考えては、あと10分、もう10分、と待つ時間を延長すること2時間、朝の5時くらいになると痛みが収まってきました。

痛みは収まりましたが、その日の昼にかかりつけの内科クリニックに相談に行きました。先生の見立てでは、原因がよくわからないけどお腹が痛くなることは良くあることなので、痛みが収束したのであれば、少し様子を見ましょうということになりました。

私もただの食べ過ぎかもしれないなと思い直し、それからしばらくは特に問題もなかったので、腹痛があったことはしばらく意識の外において忘れていました。

しかし、10月のある夜、痛みが再発しました。夜の10時ころにだんだん痛くなって来て、夜11時ころにはどうしようもないくらいの痛みとなっていました。

しかし、前回も我慢したら収まった経験が災いし、病院に行く判断が遅くなりました。深夜1時、しかしもう痛みに耐えることはできなくなっていました。吐き気も催してきて、痛すぎてのたうち廻りました。

これはいよいよ、まずいと思い家族を起こして、妻の車で総合病院にむかいました。車の中でも意識が朦朧(もうろう)としてきましたが、病院につくまではと自分を鼓舞しました。

しかし、病院に到着すると全くもう我慢ができなくなりました。痛みと吐き気で、待合室のフロアの床を転げ回りました。周囲の目を気にしている余裕など、全くありませんでした。

看護師さんたちが駆けつけ、移動式ベッドに乗せられ、私は救急治療室に運ばれました。吐き気が凄い旨を伝えると、吐くためのビニール袋を用意してくれました。私はそのビニール袋に何度か吐いた後、点滴を受けそして意識を失いました。

目が覚めると、痛みがだいぶ収まっていました。周囲を見回すとまだ治療室の中にいるようです。外科の先生がやってきて触診と、ハンディーの機器を使って超音波の診断を行いました。先生の見立てでは、胆のうに石がある急性胆のう炎であろうということでした。

少し容態が落ち着いた私は、後日、この大きな病院で精密検査を受けることにして、病院を出て薬局に寄り、処方箋を出して痛み止めと、胆のうの機能を活性化させる薬と抗生物質などを受取り、自宅に帰宅しました。朝の6時になっていました。

11月に入り、総合病院で各種検査を受けることになりました。午前中に病院に入り、まる一日がかりで検査を行いました。エコー検査、MRI検査、血液検査、レントゲン検査、肺活量の検査などを行いました。

2週間弱が経過し、11月後半になり検査の結果が出ました。医師より説明があり、胆のうには石の存在が確認でき、痛みの再発の可能性を考えると手術が望ましいとのことでした。

手術の内容は胆のう自体を摘出し切除してしまうというもの。

どうやら胆のうという臓器は、盲腸の手術と同じように、摘出してしまっても術後の人生において、そこまで特別なハンデキャップを負ってしまうことはなく生活できるようでした。

私は臓器摘出という手術の恐怖と再発時の痛み苦痛を、脳内で天秤にかけしばらく逡巡(しゅんじゅん)したあと、結局は手術する決断をしました。それほどあの痛みを再び味わうのは、嫌だったのです。その思いが勝りました。

奇しくも12月25日クリスマスの日に手術を行うことが決定しました。

それと並行してなのですが、もうひとつの手術をするかもしれない検査の予約を取りました。大腸の内視鏡検査です。こちらの検査は妻が提案してくれました。

理由は父が大腸がんになったこともあり、また肛門の内側付近に少し異物感があったので、これを期にそれもまとめて対処してしまおうというものでした。こちらの検査は翌年2024年の1月5日になりました。

腸内にポリープが見つかった場合は、ついでにその場で切除してしまうということになりました。さて、話は胆のうの手術に戻りますが、手術日が近づいてくるにつれて、流石に緊張してきました。

手術方法は全身麻酔での腹腔鏡下手術という術法で行われる予定で、開腹手術にくらべリスクと術後の回復が速いものでしたが、術後の回復にどれほどの期間がかかるものなのか、手術後の痛みはどの程度のものなのか、術後の生活はどのようなものなのかという、案ずるより産むが易しなことが頭をぐるぐる巡り、不安になりました。

そんなナーバスな気持ちを抱えつつも、手術日は近づき12月22日に病院で手続きを行い、いよいよ入院することになりました。

12月22日。入院。手続きを終え病室に入りました。病室は4名の共同部屋。いびきが心配なのでCPAPの機械も持ってきました。病院食は3食でるとのこと。

服を甚平のような病院着(レンタルで毎日交換、ただし下着と靴下は自前の用意が必要)に着替え、入浴や病院での生活の説明を受ける。朝に脈拍と血圧の検査、朝と夕方に体温測定、午前中と午後に1回ずつ担当医の回診があるとのことでした。

それ以外は自由で、院内の自動販売機、コンビニエンスストアでの食品の購入と飲食は基本制限なしでした。病院ではちょくちょく看護師さんが来て色々な用事を済ませていくので、散歩や買い出しなどであまり長時間ベッドを空けることはできません。

ベッドの上では暇を持て余すので、読書と音楽鑑賞をしていました。Kindle端末とIPadそしてBluetoothイヤホンがとても役に立ちました。

特にイヤホンでは、日中の生活音が聞こえた方が良い場合は骨伝導のイヤホン、深夜の消灯時にはノイズキャンセリング機能付きのものが重宝しました。

4人共同部屋なので、意外と気になるノイズが多いのです。特に午後に面会者が来る時間帯は、面会者との会話がうるさいと気になる場面が多くありました。ノイズキャンセリング機能は本当に役立ちました。

入浴は予約制で1人30分間の時間が割り当てられました。シャワーのみでしたが、一日一回の入浴は個人に本当に助かりました。

22日は病院の生活のいろはの勉強。23日は入院生活をいかに楽しむかということに工夫することで1日が過ぎました。そして24日、翌日は手術日ということで夕食後の食事は禁止となりました。

しかし夕食後、翌日朝までに経口補水液(OS-1)を500mlを飲むことが義務付けられました。手術時の脱水症状を予防するためとのことでした。

25日、いよいよ手術日となりました。

朝に血液検査があり、そのあとシャワーを浴びて、便所をすませました。手術用の衣服に着替えさせられ、血栓症の予防策のためストッキングのようなものも履かされました。昼の12時に移動ベッドに移り、手術室に入りました。

手術室に入るとスタッフがたくさんいて、眩しいライトが顔上に見えました。横向きに寝かせられ、背を丸めてボールのように包まる姿勢になるように言われました。

背中に、ズプリと全身麻酔の針が刺さりました。麻酔が入ってくるのがわかりました。と、ここで私の意識は寸断されました。正確には寸断されたことにも気が付かずに、次に目が覚めたときには手術は終わっていて、元の病室のベッドに寝かされていました。

3時間半が経ていました。体感的には本当にあっという間でした。えっ!?もう終わっちゃったの?というのが正直な感想です。数十秒も経過していないような感覚です。

妻がベッドの横にいました。手術で摘出された石を見せてくれました。私の石のそれは、数ミリ単位の小さな粒のような石が、100~200個ほどあるというものでした。ああこれでは胆のう痛くなるわけだよね、とってよかったなという感想が素直に口から漏れました。

私はあっという間に手術が終わってしまった驚きで、しばらく興奮状態にありました。しかし2時間ほどして、その興奮が冷めて冷静になってきたあたりから地獄が始まりました。術後の2日間は正直、痛くて苦しくて辛くての三重苦をとことん味わうことになりました。

翌26日になりました。全身麻酔も切れ、またベッドで自由に寝返りも打てず、体中や尿道などに複数の管がとおった状態は、非常に苦しく、痛く、苦痛でした。痛い!苦しい!あと何秒これを我慢すればいいんだろう?と思ってばかりいました。

そしてこういう辛い時間というのは得てしてゆっくり長く感じるもので、1時間すぎるのが本当に長く長く感じました。手術して胆のうが摘出された箇所の空白が、体内の感覚として分かるので、それがさらに恐ろしさを感じました。

また、麻酔が切れ始め、手術した箇所の痛みも感じるようになりました。これは正直痛いです。無理もありません、傷の穴は小さいとはいえ、腹部に穴を開け、内臓をひとつ取り除いたのですから、痛くないわけがないのです。

痛ければ、これを押してくださいというボタンをもらいましたが、あまりの痛みと苦しさにボタンを押すことすら忘れてしまっていました。

27日になり、水粥が出ました。かろうじて食べることはできました。

背中の麻酔の管が外されました。

おかげで若干、動きは楽になり少し寝返りは打てるようになりましたが、まだまだ苦しく、快適とは程遠く苦労しました。とても読書や音楽鑑賞をするという余裕は持てませんでした。

しかし看護師さんが来て、歩行訓練をすることになりました。最初は立つこともままなりませんでした。フラフラ、足もガクガクです。看護師さんの肩をかりて、30歩をゆっくりゆっくり歩くのがやっとでした。しかし、これが私の人生のリスタートでした。

28日の朝ご飯は全く食べる事ができませんでした。体中が痛く、尿管を通る管も不快で、食事が喉を通りませんでした。

しかし昼に、いよいよ尿管の管を抜きました。

これはとても痛かったです。

でもこれが大きかったのです。

私はこの痛みと引き換えに、身体的自由を3日ぶり手に入れました。心身が一気に自由に快適になりました。本当にまず心ありきだと思いました。

気持ちがうれしくなると身体がそれにつられて自由に動きたくなります。最初に30歩、1時間後には100歩、数時間後には外科病棟の通路をスタスタ歩けるように、夜には飲み物をコンビニまで買い出しできるまでに、一気に足腰が回復しました。

それにともない、食欲も回復し、病院食を完食できるようになりました。元気が出てくると、病院にとどまっているのが苦痛に感じるようになりました。やはり4人部屋の共同生活というのは、色々と気苦労ストレスが貯まるのです。

私は翌日には退院したい気持ちを、強く決意しました。そして29日に回診に来た担当医師のS先生の許可もおりて、その日の午後に退院となりました。身体はまだ病み上がりで、術後の傷も痛々しく、平常時の生活を行うには程遠い身体的状況でしたが、気持ちは実に晴れ晴れとしていました。

退院後、2日間は家での養生生活でした。無理はしないようにしました。

担当医師からも腹圧をかけないように、重いものは持たないように、食べすぎないようにとの注意を受けていました。

また私の場合、手術をした腹部の皮膚が炎症を起こし、赤いポツポツが大量に広範囲で発生する事態となってしまったので、別途、皮膚科で炎症を抑える薬と軟膏を処方してもらい対処しました。

そして静かに大晦日、正月を迎えました。

そういえば、今回のクリスマスは病院で過ごすというなかなか貴重な経験をしました。

そこでは看護師さんたちからクリスマスカードを頂くという、心温まるサプライズもありました。

正月を静かに過ごし、明けて1月四日の夕方から絶食、翌1月5日の朝から下剤を2リットル飲み込んで、何度も排便をしてからクリニックで大腸の内視鏡検査を行いました。

今回は部分麻酔とのことでしたが、やはりベッドに寝て麻酔を受けるとウトウトしてしまいました。何かお腹の中をグルグルまさぐられている感覚はありましたが、目が覚めて気がつくと2時間が経過していました。先生の話では肛門付近にポリープがあったので切除したとのこと。大腸は問題なしであろうとのことでした。

2月に入り胆のうと大腸の生体検査の結果が告げられ、どちらとも癌の存在は確認できないとのことでした。私はここでやっとひとまずホッとすることができました。今回の一連の手術は大げさかもしれませんが、私の人生観に大きな転機を与えました。

人の命にはやはり、限りがあること。そしてその命は、私の理解を超える何か大きな存在に与えられたものであることを理解しました。そして私はこれからは頂いた残りの人生を、命を与えてくれた大いなる存在への恩返しのために生きようと思うようになりました。

動画編集者としてブロガーとして

1979年に誕生して以来、44年以上生きてきた私ですが、色々な失敗や挫折や損失を被った経験を経て、やっと自分の性格とタイプを把握できて来たようです。

そしてそのことで私がやるべき仕事、得意そうな仕事の方向性も見えてきた様に思えます。私はどうやら、小さい成果を積み重ねる仕事が向いているようです。

逆に言うと、短期間に大きな成果を出す仕事には向いていないようです。理由としては、株の売買を経験して分かったように、いっぺんに大きな損害がでることが予想できた場合、きっちりと損切りができない性分であること。また、深夜までうつ病になるまで仕事を詰め込んでしまう仕事グセがあるからです。

このようなタイプであることが分かったのですから、そういった仕事や働き方は避ける必要があると思われます。私は環境を作り変えて、そもそもそういった必要の少ない仕事をやっていくことを決断しました。

まず環境を変えるということで、基礎の基礎として生活習慣を変えることを決意しました。具体的には、早起きと運動習慣を身につけるということです。

早起きすることによって、昼間の時間に余裕をもたせ、親の介護や子どもの世話、不動産貸付業の仕事への対応時間を確保するのが第一の目的。そして体内時計を朝方にセットして、ホルモンのバランスや胃腸や神経の調子を整えることで、頭痛やうつ病の症状を未然に抑えるのが第二の目的です。

また運動習慣を身につけることによって、体力と筋力をつけ肉体の疲労と不調を早起きとの相乗効果で軽減していくことも狙っていこうと思います。運動といっても難しいことはやりません。コツコツと小さなことを積み重ねるやりかたを、長期的に貫こうと思っています。

4ヶ月ほどジムに通ってみました。

有酸素運動を40分、筋トレを20分のメニューを毎日、早朝に行いました。

これは良い結果を生みましたが、問題点も2つほど出てきました。

まずジムの月会費のコストが、5000円ほどかかるということ。つぎにやはり毎日ジムに通うのが、面倒で移動の時間がもったいなく感じるということでした。

そこで私はジム通いを辞め、自宅でのトレーニングに切り替えました。最近は自宅でも省スペースかつ安価でフィットネスバイクが購入できることを知った私は、それを購入して20分を2回1日で分けて行うことにしました。

フィットネスバイクは音が静かで音楽やスマホで動画を見ながら、いわゆるながら運動ができるのでとても助かります。私はAmazonAudibleをイヤホンで2倍速再生で聴きながらバイクを漕ぐことで、日々の読書の時間を確保するのに活用しています。

そして自重での腕立て伏せ30回、腹筋30回、背筋30回を3セット。またお昼前に可能な場合はニンテンドースイッチのフィットネスボクシングを約20分と、これらを毎日の日課として行うようにしています。すべて自宅でできるので、移動の手間と時間が必要ないのは大変助かります。

つづいて仕事面でも2つの仕事を並行してトライしてみることにしました。動画編集の仕事とウエブブログの執筆の仕事です。

動画編集は近年のネットとPCの進化が可能にした、個人が行える副業としても人気の仕事です。以前は動画編集はその道のプロが、会社組織やフリーランスとしてやるものでした。

それがPCの性能の飛躍的な向上で、個人が自宅でも可能なものになったのです。私としては、学生時代の映画部だった頃からの夢への再トライという意味があります。

簡単な仕事ではありませんが、私にとっては好きな映像の仕事ですし、やっていて苦痛を感じることが少なく、やりがいがある仕事になりうると考えのことです。

労働集約的な職業であるので、単価をあげないと収入が少ないというデメリットもありますが、着実に働いた分の収入は見込めるのも魅力です。

そしてもうひとつはウェブブログの執筆です。

学生の頃に新聞部の活動をしていたこともあり、もともと本を読むのも文章を書くのも苦痛ではなく、また少しずつコツコツ作業を積み重ねるのも性に合っているので、この仕事をやってみようと思いました。

写真撮影やPCやプログラムやWEB制作の知見も、これまでの職業経験から多少は持っており、ウェブブログ運用においてこれらが活かせると思いました。

ブログはストック型(積み重ねればその分、収入リターンが増える可能性が上向上するタイプ)のビシネスであり、また寝ている間や他のことをしている間に書いた記事がお金を生んでくれる性質がある仕事です。

これは株や投資信託、不動産によるアパート経営と同様に、不労所得を生み出してくれるタイプのお金のなる木、金の卵であります。

ゆえに私は、こちらの仕事も重要と考えています。大切なのは無理をしないこと、継続的に少しずつ改善を続け、長期的に記事を量産していくことで利益を増やしていくことを第一に掲げたいを思っております。

私はこれら2つの仕事を車の両輪のように廻していき、日々の生活収入の基盤を築き、生活を向上させていきたいと考えています。

さて最後にお恥ずかしながら、私の今後の夢も書いておこうと思います。これまでの失敗談も赤裸々に書いてきたのです。ここで恥の上塗りになろうとも何を恐れることがありましょうか。

夢は3つです。

ひとつめは事業と投資を積み重ね、10年で10億円の資産を築きたいという夢です。

また、未来の動画編集者志望の卵の方々をレクチャーする学校を作る仕事もしたいと考えています。

そして最後に、様々な経験の決算として、その都度その都度で電子書籍のKindle本を出版したいと考えています。

私はこれらの活動で、老若男女様々な人々が人生の道のりを歩む上でひとつでも何かうれしいと感じ、喜びを見出す一助になる場を生み出せたらと願っております。

今現在はこれらの夢を実現するために、挑戦と実践の日々を送っています。当ブログの文章が、わずかでも皆様にとってお役に立つこと、慰みになること、手助けになることがあれば幸甚に耐えません。

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