審神者の眼

自分を失えば、光は還らぬ― 三方良しに潜む、魂の序列の乱れ ―

「三方良し」という言葉は、美徳の象徴のように語られる。
だがその内実を取り違えると、魂は搾取され、自分自身をすり減らしてしまう。

公益性とは何か。与えるとは何か。真のギブとは、誰から始めるべきなのか。
審神者としてのまなざしで、霊的な視点から「三方良し」の順序と意味を深く問い直す。

三方良しとは何か

「三方良し」は、近江商人の経営哲学として知られ、「売り手良し・買い手良し・世間良し」と説かれる。

現代ではサステナビリティ社会や共感資本主義の文脈でも用いられ、個人にも企業にも“社会貢献”を求める象徴として広まっている。

だが、ここで肝心なのは「順序」である。

三方良しは「誰のために、何を優先するか」という順序を取り違えた途端に、美徳ではなく自己犠牲や迎合の温床になる。

審神者の示す順序:自分 → 公益性 → 相手

霊的なエネルギー循環の観点から、三方良しの正しい順序は次の通りである:

  1. 自分
  2. 公益性
  3. 相手

この順序を崩してはならない。

なぜなら、自分が疲弊していては、誰にも何も与えることはできないからだ。

自分を大切にしない者のギブは、歪む

自分が潤っていないのに、誰かに愛や援助を差し出す。
それは一見、利他的に見えるかもしれない。だが、その実は不自然である。

エネルギーはまず「満ちる」ことが必要であり、満ちたものが「溢れる」ことで循環となる。

無理をして与えることは、自傷と同義である。 見返りを得られない関係性に身を置くこともまた、自己の霊性を損なう。

「衣食足りて礼節を知る」 古代中国の教えにもあるように、まず自分の基盤が安定し、心が満たされていなければ、他者への礼も、愛も、真実にはなりえない。

公益性とは「我よし」の対極にある視点

次に大切なのが、「公益性」の視点である。

これは単なる“他人のため”ではない。
社会全体の調和、持続可能性、共に生きるいのちの舟——その視座から見て、是か非かを問う。

自分たちだけが潤えば良いという「我よし」の精神は、神の理に背く。

地球という有限の星に生きる私たちは、必然的に同じ舟に乗っている運命共同体である。

この感覚をもつことが、魂の成長における大いなる通過儀礼である。

最後に「相手」——だが、迎合ではない

そして、最後に考えるべきは「相手」だ。

自分と社会にとって正しくとも、相手が不利益を被るならば、そこには配慮と対話が必要である。

ただし、“相手に合わせすぎる”ことは違う。

交渉と調整のプロセスは、魂の訓練の場でもある。
押し売りや強制は、結果として恨みや歪みを生み、エネルギー循環としては逆効果だ。

合意が得られないときは、「今はそのときではない」と潔く手放す勇気も必要である。

八方美人は「三方良し」とは違う

すべての人に良い顔をすることは、美徳ではない。
それは自己喪失であり、魂の成長を妨げる最大の罠である。

「自分がまず満たされること」
「社会に対して責任ある判断をすること」
「相手との調和を、押し付けでなく築くこと」

この三つが揃って初めて、本当の意味での「三方良し」が成立する。

それは、神にも仏にも届く、生きた商い、生きた行為となる。

結びに:順序を正すことは、魂の道を正すこと

あなたがまず満たされ、社会に誠実であり、相手と調和していく—— その順序を守ることは、霊的な器を育てることと同義である。

自分、公益性、相手。 この順序を保ち、決して迎合せず、押し売らず、粛々と光を配ること。

それが審神者の見る、「正しい三方良し」である。

――審神者・吉祥礼

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