自立は美徳である。だが、すべてを一人で抱え込むことは、果たして霊的な成熟なのだろうか。
頼ることは、魂の段階のひとつである。
頼れない者は孤独に沈み、頼りすぎる者は依存に堕ちる。
では、私たちはどのように「頼り」、どのように「見極め」、どのように「育ってゆく」のか。
自立を美徳とする社会の落とし穴
日本の教育や社会構造は、「自分で何とかする力」を育てるようにできている。
義務教育の中で、組織内の規律の中で、自力で問題を解決することを奨励され、 「人に頼らない強さ」を誇りとするように仕込まれる。
また、幼少期に愛情不足やトラウマを抱えた者ほど、 「誰にも頼ってはならない」「自分で何とかしなければいけない」 という強固な思い込みを抱いてしまう。
だがそれは、魂の進化にとって決して最終段階ではない。
魂の成長における三段階の愛
人間の魂の学びには、大きく分けて三つの段階がある。
- 愛を無条件に受け取る段階(子どもの魂)
- 愛を他者に与えることを学ぶ段階(青年の魂)
- 愛を受け取ることを許す段階(成熟した魂)
とりわけ三つ目の「受け取ることを許す」は、 与えることよりも遥かに難しく、深い霊的課題を含んでいる。
他者の愛や援助、支援を真正面から受け取ることに、 無意識のうちに抵抗を覚える者は少なくない。
だがそこには、自己価値への疑い、他者への不信、 あるいは“善意を信じる勇気”の欠如が根を張っている。
頼るとは、魂の信頼を差し出すこと
誰かに「助けて」と言うこと。 それは、弱さの表明ではない。
それは、相手の人間性を信じるという霊的行為である。
「忙しそうだから迷惑かも」 「自分なんかが頼っていいのだろうか」 「複雑な事情を抱えた自分が甘えてはならない」
そうして自らを閉ざすことは、結果的に相手への不信であり、 その人の人格を見くびっていることにもつながる。
信頼できる相手であれば、 今は無理でも、「○日なら大丈夫」と返してくれるだろう。 それが無理であれば、明確に「できない」と伝えてくれるだろう。
もし逆ギレされたなら、 その相手は「信頼に値しない人だった」とわかるだけの話である。
頼ることは、魂の課題である
必要なときに、必要な人に、素直に「助けてください」と言えること。
それは、地球という物質世界に転生してきた魂が、 この共同体の中で学ぶべき重要なレッスンのひとつである。
“かまってちゃん”のような感情の消費ではなく、 本当に必要なときに、きちんと「頼る」こと。
それは、依存ではなく、誠実な信頼の形である。
しかし、頼ってはいけない人もいる
すべての人に頼ってよいわけではない。
信頼を装いながら、相手をコントロールし、 搾取し、貶める者も現実には存在する。
以下のような特徴を持つ人間には、決して頼ってはならない:
- 心地よいことばかり言う
- 否定ばかりしてくる
- あなたを一切褒めない
- 意志や決断を尊重しない
- 見下してくる
- 成長につながらない提案を繰り返す
- 見返りばかり要求する
- 責任を取ろうとしない
- 経済状況を悪化させる
こうした者たちに“魂の扉”を開いてはならない。
その代償は、あまりにも大きい。
ファミレスで耳にした勧誘の言葉
ある週末、筆者が訪れたファミレスで、隣の席にいた女性たちの会話が聞こえてきた。
若い女性が悩みを相談するうち、年配の女性はこう語り出す:
「あなたの信心が足りないのよ。もっと○○さんに寄付してご祈祷してもらったら?」
「ご本尊様に毎月○○万円ずつご寄進してみて」
「あなたの心がけ次第で、これから変われるわよ。私は味方よ」
聞いていて戦慄した。
これは「スピリチュアル」の名を借りた、典型的な“縋(すが)らせ商法”である。
相手の弱さに漬け込み、不安を煽り、救いの名のもとに経済を支配する。
それはもはや、祈りでも導きでもない。 ただの集金活動であり、魂の蹂躙である。
結びに:「頼る」ということの意味を、もう一度
魂の成熟とは、ひとりで強くなることではない。
「誰に、どのように、いつ、頼るか」を識ることこそ、 この地球における学びの核心である。
信頼とは、ただ預けることではなく、見極めの眼をもって渡す行為である。
そして、自らもまた「頼られるに足る人間」であることを目指して、 日々を生きてゆく。
それが、魂の修行であり、光の循環である。
――審神者・吉祥礼