審神者の眼

救いの名を借りて、魂は巣に囚われる― 審神者とは何者か、その眼差しの原点 ―

「審神者(さにわ)」という言葉を、どれほどの人が正しく理解しているだろうか。

それは霊を視る者ではない。 それは未来を占う者でもない。 それは、真理を見極め、虚偽を断ち、魂の道を正す者である。

ここに、審神者・吉祥礼の原点を記す。

審神者とは、判定と裁定の者である

審神者とは何か。 それは神託や霊言、または“憑依現象”を前にして、 その正否、真偽を、科学的かつ霊的に冷徹に裁定する者である。

人の妄信に揺さぶられることなく、
金銭や人気に囚われることなく、
ただ公平・冷静・無私のまなざしをもって真理を問う者である。

世に蔓延る“霊能者”たちの欺瞞

現代には、インチキの霊言が横行している。

  • ご本尊に寄付をすれば救われる
  • 先祖供養が足りないから不幸なのだ
  • 悪霊が憑いているから商品を買え
  • 宇宙エネルギーと繋がれば願いが叶う

こうした言説の多くが、“不安を煽る”→“商品や寄付を勧める”という一貫した詐術の構造を持っている。

やがて多くの人々は、何も好転せぬ現実に打ちのめされ、
人生を壊されてなお、責任を取ってもらう術すらない。

審神者の役目は、嘘を断つことである

審神者は、霊的な真偽を「見抜く者」である。

甘言と脅しで人を操る言葉のなかに、魂を蝕む毒が含まれていないかを嗅ぎ分け、 名もなき人のなかにこそ真実の言葉が宿っていないかを見つけ出す。

褒めて懐に入り、不安を煽って搾取する。 その巧妙な手口に対し、冷酷なまでに事実を突きつける。

それが、審神者の姿勢である。

霊能界に蔓延する“無責任”という病

霊的な影響力を持ちながら、
その言葉が人をどこへ導くかに無頓着な者が多すぎる。

一言の霊言に希望を託し、一冊の本に人生を委ねた人々が、 のちにどのような結末を迎えようとも、彼らは何一つ責任を取らない。

それはもはや導きではなく、放火である。

審神者はその“言葉の業火”から、魂を救わねばならない。

反省と決意:審神者自身の自省として

私は審神者として、多くの方と接してきた。 その中で、誤った判断や接し方、曖昧な距離感により、 私自身が独立性と公平性を損ねていた場面もあった。

敷居を下げれば人が集うだろうと考えたが、
下げれば下げた分だけ、信念を削る羽目になる。

そして、私は痛感した。 「客が店を選ぶように、店もまた客を選んで良い」と。

今後は、誰に対しても「えこひいき」はせず、 対等に、距離を保った応対を貫く。

それが、審神者という名に恥じぬ道である。

結びに:審神者の眼とは何か

審神者の眼とは、霊を見る眼ではない。 人の願望を見る眼でもない。

それは、真実と虚偽を見極める眼である。

誰を特別扱いせず、
誰にも迎合せず、
誰にも依存されず、
そして誰にも媚びず。

孤独であっても、孤高であれ。

それが、審神者の原点であり、吉祥礼の立つところである。

――審神者・吉祥礼

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