光の余白

まことを生きる時代へ──嘘も方便の時代は終わった

かつては「方便」という名のもとに、

真実から目を逸らすことが美徳のように語られた時代がありました。

けれど今――

その時代は、静かに、しかし確かに終わりを告げようとしています。

なぜなら今、魂が求めているのは「やさしさの仮面」ではなく、

「真実の光」だからです。

審神者とは、厳しさそのものではありません。

しかし、誠実さの極致ではあります。

真実を見極め、偽りを抱きしめず、

魂の秤をもって世界を丁寧に見つめる者。

そこに必要なのは――

恐れでも、妥協でも、偏見でもなく、

ただ「まこと」のまなざしです。

優しいふりをして事実を濁すことは、もう美徳ではありません。

正しさの名を借りて嘘を流すことも、もう霊性にはそぐわない。

私たちは、もっと誠実であるべきです。

何が正しく、何が誤りかを断じることではなく――

自らが「公正であろうと努める者」であるかどうか。

その姿勢こそが、魂の真価を表します。

ある日の話を思い出します。

ある場で「愛とは何か」という問いがなされ、

多くの者がそれぞれの定義を語り合いました。

「大切に思う気持ちでいいのでは」

「それぞれの自由では」

――やさしい言葉たちが、空にふわりと浮かびました。

けれど、そこに“祈り”はあったでしょうか。

“創造主の御心”という、霊的な原点へのまなざしはあったでしょうか。

愛とは、単なる感情ではありません。

それは“創造そのもの”に宿る意志。

天地に連なる原理法則。

魂を生かし、目覚めさせる宇宙の響きなのです。

審神者が語る愛とは、

人に優しくすることではなく、

魂を“真理”へ導くことであり、

自己満足の救済ではなく、

天と地を貫く誠の回路となること。

YesかNoか。

分かるか分からないか。

それを曖昧にしない。

それが誠であり、礼であり、魂の潔さなのです。

私は、誰よりも自らを律したい。

人の上に立つためではなく、

誰かを裁くためでもなく、

ただ、“自分を偽らない”ために。

いま私たちは、そういう時代に立っています。

嘘も方便ではなく、

“まことが灯となる”時代。

やわらかさと厳しさを両手に携えながら――

私たちは光の道を、まっすぐに歩んでいきましょう。

――審神者 吉祥礼 拝

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