光の余白

構造に敗れた世代――近衛兵だった祖父が見た、大東亜共栄圏の夢と崩壊

敗戦から八十年近くが経とうとしている。

戦争を直接経験した世代は、いまやほとんど姿を消した。私の祖父は、大日本帝国の近衛兵として、大東亜共栄圏の理想に燃え、幾度も命を懸けた突撃作戦を指揮した人物だった。

しかし、徹底的に米英と戦い、そして徹底的に敗れた。

その敗北ののち、捕虜となり、敵から直接学んだ祖父は、こう漏らしたという。「そもそも構造の規模と深さで負けていた」
この言葉は、単なる武力差の話ではない。日本人が忘れかけている「構造的な敗北」の本質を、祖父は戦場で知っていた。そしていま、その教訓を知らぬまま、私たちは再び同じ道を歩もうとしている。


1. 近衛兵としての青春

私の祖父は、大日本帝国陸軍の近衛兵だった。近衛兵といえば、皇族や国家元首を護る精鋭部隊。軍人の中でも選び抜かれた者たちだ。
祖父は若くして大東亜共栄圏の理想に燃え、「アジアを白人支配から解放する」という使命を信じていた。それは、戦争が国家総力戦へと傾く以前の、まだ多くの若者が夢を持って軍服を着た時代の空気だった。

やがて祖父は南方戦線へ送られた。戦地では英国軍と幾度も交戦し、物資補給が途絶える中で武器弾薬も尽き、最後は決死の突撃作戦に臨むこともあったという。
その話を、私は幼少期に何度も聞かされた。弾薬は数発、あとは銃剣と体当たり。死を覚悟した兵士たちの目は、不思議なほど澄んでいたと祖父は語った。


2. 完膚なきまでの敗北

だが、理想も気迫も、構造の前には無力だった。米英は、兵器の質と量で日本を圧倒していた。それは単なる物量差ではなく、「戦争を動かす仕組み」の段階から差がついていたのだ。

補給網、兵站、情報通信、連合国間の資源分配――これらはすべて、すでに標準化・互換化され、戦争全体を一つの巨大なシステムとして稼働させていた。
一方の日本は、各軍・各現場が個別に奮闘しても、装備規格はバラバラ、補給は場当たり的、連携は困難。祖父は「現場はよくやっていた。だがそもそも勝てる構造ではなかった」と語った。


3. 捕虜収容所での学び

敗戦後、祖父は捕虜となり、英軍や米軍の将校と直接話す機会を得た。
そこで彼は、敵国の視点から日本の弱点を聞かされた。

それは武器性能や兵士の士気の問題ではなく、戦争を遂行するための構造そのものにあった。
軍事技術の研究開発から量産化までのスピード、兵站システムの合理性、各国の規格統一による互換性――祖父はそれらを聞き、「これでは勝てるはずがない」と心底納得したという。

この経験から、祖父は戦後の日本で軽はずみに「日本はすごい」とは言わなかった。敗因を感情論で片づけず、構造的な敗北の本質を理解していたからだ。


4. 戦後復興と世代間の断絶

戦後の日本は、祖父の世代が見た現実を踏まえて復興を進めた。
米国の技術や制度を積極的に学び、互換性と標準化を取り入れた産業は飛躍的に発展した。トヨタやソニーが世界市場で成功できたのは、この時代の学びを反映したからである。

しかし、祖父の世代が姿を消すにつれ、この実体験に基づく謙虚さは薄れていった。
再び「日本スゴイ論」が軽やかに語られ、構造的な脆弱さへの自覚は後景に退いた。その結果、ガラケーやウォークマンのように、技術的には優れていても世界標準に乗れず淘汰される事例が繰り返された。


5. 歴史は繰り返すのか

祖父がもし今を見たら、どう言うだろう。
おそらく、「また同じ道を歩もうとしている」と嘆くに違いない。

構造を軽視し、独自性に固執し、互換性の力を軽んじる姿勢は、戦時中と同じ過ちの種である。
互換性とは、単に外国語や規格を採用することではない。

それは「世界の中で自分たちがどう機能するか」という設計思想であり、生き残るための条件なのだ。


6. 私たちへの問い

私は祖父の話を、戦争の思い出話としてではなく、「構造で敗れた記録」として受け継いでいる。
英語で発信することも、世界標準と互換性を持つための手段の一つだ。

そこにためらいがあれば、また孤立と敗北の道を歩むだけだろう。

祖父の世代は、理想や精神論ではなく、構造的な現実を直視した。
私たちはその教訓を、本当に活かせているだろうか。歴史が再び同じ過ちを繰り返そうとしている今こそ、問い直す時だ。


-光の余白
-, , , , , , , , , , , ,