人はなぜ、「信じたふり」をしてしまうのか。
誰かが言ったから、昔からそう言われているから――
そんな理由で信じるものは、本当に“自分のもの”と呼べるのだろうか。
信仰とは、ただ祈る行為ではない。
それが自分のどこに座しているのか――
その“位置”こそが、迷信と法則の違いを明らかにする。
霊性のまなざしから見つめた、信じるという行為の構造。
審神者・吉祥礼がひもとく、信仰の座標をめぐる霊的考察。
― その信仰は、どこに座しているのか ―
目を閉じて、風の音に耳をすますとき
私たちは何を“信じて”いるのだろうか。
ひとしずくの願い、ひとひらの希望。
人はよく「信じていれば、いつか叶う」と言う。
けれどその“信じる”とは、いったい何のことなのか。
それは誰かに教えられた呪文だろうか。
手に結んだお守りか、願掛けのルーティンか。
あるいは、いつの間にか自分のなかに根づいた、
言葉にもならぬ確信のことだろうか。
その違いを分かつもの――それが「信仰の位置」である。
迷信とは、外に置いた偶像の影である
迷信とは、たしかに「信じる」という行為の変容である。
だがそこには、自らの魂の眼が閉じられている。
他者が言ったから
昔から言われているから
誰かがそうしているから
そうした“外側の正しさ”を、無批判に受け入れる心の動きが、
迷信という形をとって人の内にしみ込んでいく。
その構造は、対象を“神格化”することで安心を得ようとする欲求に支えられている。
つまり、自分の判断や直観を差し出し、
思考を一時停止することで「委ねた気持ち」になれるという幻想である。
迷信とは、理性なき崇拝であり、
自らの内に宿る“観る眼”を閉ざすことで成り立っている。
法則とは、内と外のあわいに現れる真理のひかり
一方、宇宙の真理法則は、まったく異なる次元に立脚している。
それは誰かが唱えた教義ではなく、
自らの精神の奥深くに観察と洞察を積み重ねたとき、ふと現れる霊的構造である。
内なる世界と外なる世界――そのあわいを通して現れる普遍性。
それはあるとき、植物の芽吹きのなかに、
あるとき、他者とのやりとりの気配のなかに、
またあるとき、自らの感情の波の底に、顔を見せる。
法則とは、自然と人間のあいだを貫く“霊的な相互関係の動態”である。
それゆえに、法則はどこかに書かれた定理ではなく、
「わたしとあなた」のあいだで生まれる響きとして現れる。
信仰の“位置”が、迷信と法則を分かつ
人は何かを信じずには生きられない。
それは人間が未熟だからではない。
信仰とは、霊的生を支える根幹だからである。
だが、その信仰が“どこに置かれているか”によって、
迷信にもなり、法則への感応にもなり得る。
迷信的信仰とは、自分の外に“正解”を置く信仰である。
「この神社に行けば運が上がる」
「この占いが当たるから従う」
「この師の言葉に逆らわなければ間違いない」
そこには、自分で感じ、考え、選ぶ主体性がない。
一方、法則的信仰とは、自分の内側で“感じた響き”を通して外界と結び直す信仰である。
「この感覚は真実と響いている」
「この出来事には、何か深い意味がある」
「この人と交わした言葉に、なにかが宿っていた」
それは“自分勝手な思い込み”ではなく、
自己と世界の接点に現れる共鳴現象としての信仰である。
関係性のなかに現れる法則
宇宙の法則は、単なる物理法則ではない。
「関係性のなかに法則が現れる」という霊的構造がある。
誰かと交わす視線
ふと差し出された言葉
同時に起きた気づき
そうした些細な出来事のなかにこそ、
見えない糸で繋がれた因果と真理がある。
それは迷信ではない。相互の魂が響きあって起きる霊的現象である。
審神者は、それを一方的な信仰ではなく、双方向的な共鳴として読む。
つまり、「信じる」のではなく、「響き合う」のである。
霊的中庸の座標としての審神者の眼
では、審神者とは何を見抜く存在か。
それは、信仰がどこに座しているかを見極める者である。
偶像を拝むふりをして、自らの感性を封じ込めていないか。
霊性という名のもとに、他者を裁く道具にしていないか。
信じることで、むしろ他者との隔たりを生んでいないか。
――そうした「信仰の位置の歪み」を見抜くのが、審神者の眼である。
そして逆に、言葉にならない静かな共鳴のなかに、
ふと現れる真理のかけらを見逃さず、
それを偏らず、曇らず、中庸の座標で受け取る。
これが、法則の恩寵を読み取る者の姿である。
終わりに――信じるのではなく、響き合うために
私たちは、何かを信じるふりをして
ほんとうは、誰かに安心を預けたかったのかもしれない。
でも、それでは魂は決して自由にはならない。
迷信を破るのは、否定ではなく洞察であり、
法則を見出すのは、知識ではなく感応である。
だから私は今日も、
内なる霊的感受と、外なる出来事とのあわいに立ち、
そこに響きあう“法則のひかり”を見出し続けたい。
――それが、審神者としての歩みである。
吉祥礼