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自己紹介〜私の半生は挫折からの学びの日々(其の1:青春編)

自己紹介がてら、ブログ著者である私自身の半生を記事にしてみようと思います。

振り返ってみると私の人生は病気や失敗の連続でした。約45年間、ずっとそうです。

それでもすべてが無駄だったかというと、自分の人生体験をブログのネタにして書くことができるのですし、無駄ではなかったと思います。

読書に目覚めた幼少期

子供の頃の記憶を呼び起こしてみて、私の記憶がはっきりしてくるのは、幼稚園には入園する前後でしょうか。恐竜図鑑を親に買ってもらって、毎日そればかり飽きずに眺めていたのを覚えています。

どちらかというと、おとなしい子供でしたが、昭和50年代の日本の地方都市のひとつである茨城県日立市で生まれ育った私は、本を読む以外は近所の空き地や雑草が生い茂った野原で、棒きれを手にしてチャンバラごっこなどをして日がな一日、遊んで暮らしていたのを覚えています。

小学校に入学したとき、読書が私の後の人生の習慣になるのに影響を与える決定的な人物に出会いました。担任のO先生です。O先生は人間讃歌をモットーにする非常にポジティブな人物で、子どもの主体性・自主性を重んじる独特な教育方針をもった方でした。

裸足教育、授業に映画鑑賞を取り入れる、とにかく教科書を何度もよく読んで書写することを軸とする授業などを実践していました。年齢的には退職間近でしたが、説得力と威厳のある女性で、いつも凛としていました。

その先生に、私が良く読書をしているのを褒められたのです。先生からしてみれば、些細な指摘だったのかもしれませんが、子供の立場からすれば大違いでした。私は初めて社会や大人から認めてもらったような、なんとも言えない高揚感を覚えたのです。

ちなみに発奮した私が当時、よく読んでいたのは寺村輝夫の『王さまシリーズ』と漫画で読む日本の歴史の2つです。暇があれば、学校の図書室に通い詰めて読んでいました。

野球と高校受験で挫折

小学4年生になると軟式の野球少年団に入りました。今にして思えば、父親が家のテレビで毎日、プロ野球を観ていた影響があったのだと思います。親の刷り込みのパワーは恐ろしいですね。

最初、バットを振ってもボールにカスリもしなかったのですが、数ヶ月、毎日素振りを100回続けていくうちに、バットにボールが当たるようになり、キャッチボールも少しずつ遠い距離でできるようになっていきました。1年間が過ぎようとした頃、私はチームの主軸選手になっていました。

めでたしめでたしと言いたいところですが、しかしこれが、そしてここからがまさに私の挫折と失敗の連続の人生の始まりでした。

レギュラーをとってチームの主軸になった。このことが逆に私の心におごりと慢心をうみました。振り返ってみればこのあと、挫折して鼻高の鼻をポキっとへし折ってもらったことは良かったのですが、当時の自分はひどく落ち込み悩みました。

少し横道にそれます。このころ任天堂がゲームボーイという機種を発売しました。任天堂はその数年前にファミリーコンピュータを世に送り出し、社会現象を巻き起こす大ヒットを飛ばしていました。そして、当時の子供達の遊び方と過ごし方を一変させました。

そして、ゲームボーイ。この機種はカートリッチを交換すれば、様々なゲームが遊べるどこにでも携帯可能なゲーム機という点が画期的でした。それを4年生のクリスマスに親が買ってくれたのです。画面はモノクロ、今の任天堂Switchのような美しい音も画像もありません。

しかし、当時の私を含めた多くの子供達が、どこでも、好きな姿勢で、親に叱られなければ好きなだけ遊べる夢の端末に夢中になりました。

ゲームにハマることは良いことばかりではありません。副作用として視力がみるみる低下しました。中学1年生のときには既に、視力は0.1に下がっていました。乱視も入ってしまいました。その影響で、読書をすると非常に目が疲れるようになりました。

そしてメガネは掛けましたが、野球を本格的にやっていくには圧倒的に不利になってしまいました。

このときの私はまだ、損切りという言葉を知りませんでした。冷静に判断して不利なときは、諦めるということができませんでした。状況は悪化する一方なのにです。悪い状況をなんとなく放置してしまいました。

話を戻します。中学2年生の時、陸上競技の砲丸投げの選手になりました。野球のピッチャーもやっていたので、ボールを投げることは得意だったのです。しかし、これが大間違いでした。砲丸投げの投げ方、フォームが体に染み付いてしまい、野球のピッチングフォームがわからなくなってしまったのでした。

これには焦りました。直すために必死で努力しましたが、結局3年生の部活引退までフォームは直らず、以後、二度とスピードボールの投球も遠投もできなくなってしまいました。

ここでも損切りができませんでした。ピッチャーとしての高いパフォーマンスが発揮できなくなったのなら、その立場を早々に、他のチームメイトに譲ってしまえばよかったのですが、それができませんでした。

ピッチャーという地位にこだわってしまいました。あの時、状況を冷静に判断し、自分はできないとチームメイトに譲れていたら、チームはもっと良い成績を上げることができたのではないでしょうか。

そして、高校受験の時期がやってきました。私は第1志望校として地域の県立の進学校を志望していました。なんとなく学校の成績は良かったのです。しかし、ここでも悪い癖の油断、慢心がでました。

周囲の人達はみな、私がなんとなく勉強して、なんとなく遊んでいた時期に、必死でコツコツ勉強していたのです。努力していたのです。そして、当然の結果が出ました。

志望校の合格者発表番号に私の番号はありませんでした。はっきり言えば、人生を甘くみていた報いです。これも今にして思えば、受験に落ちてよかったなと思います。あれで運よく合格していたら、とんだ勘違い野郎になってしまっていたでしょう。

リベンジの高校生活と大学受験、映像との出会い

高校は水戸市の私立の高校に特待生で入学しました。当時はまだ、できたばかりで無名の私立校でしたが、鶏頭牛後、高い評価をしてくれた新しい場所で心機一転、頑張ってみようと思ったのです。また自分の勝手な思い込みなのですが、受験に失敗したので顔見知りに出会うのも恥ずかしいというか嫌になっていたのです。

毎朝6時台の電車に乗り、朝の7時半から特進クラスの特別授業。夕方5時まで勉強漬けの生活を3年間送りました。リベンジしたいというモチベーションは強く、よく勉強しました。3年間、すべてのテストや模試で学年総合1位の成績を取り続けました。

また、世界史の成績はよく伸び、3年生のときは、ある有名予備校主催の大学受験全国模試では、全国1位の得点を取ることもできました。この3年間の勉強は、本当に私にとって血肉になりました。先生方も本当によく授業をしてくださいましたし、私もそれに応えようとよく勉強したと思います。

しかし、ここでもまた悪い癖が出ました。おごりと満身と独りよがりです。一見よく見える成績、しかしそれはあくまでも自分の学内でのこと、もしくは得意分野の模試の成績だけです。当然、世界は広い。言わずもがな日本は広いのです。

学外、そう日本中には私よりコツコツ努力し、私よりずっと真面目に勉強をし、優れた先達に師事し、才能もある同世代の人達がいくらでもいるのです。まさに胃の中の蛙、大海を知らずです。

結果から言えば、大学受験も本命は失敗しました。地方の国立大学の補欠合格に運良く引っかかることはできたのですが、それは運が良かっただけです。

ここで自分をよく反省し、東京の有名な予備校なりで1年間勉強をすれば、知見も広がったかもしれませんが、後の祭り。自分の選択は、地方の国立大学への進学でした。

実家の経済状況的にも、地方とはいえ国立大学に入ってしまったほうが負担が少ないという考えもありました。しかし、これも考え方によっては良かったのかもしれません。

もしあのまま、受験戦争にどっぷりハマって、偏差値や学歴絶対主義の価値観に染まってしまっていたら、そしてそういう頭デッカチの大人になってしまっていたら、それはそれでどうなんだろうと今の私は考えています。それはそれで微妙です。

勉強漬けの3年間でしたが、まったく他のことをしなかったといえば嘘になります。横道にそれたり、サボったりといったこともチョコチョコやりました。

まずひとつめは、読書。通学の往復3時間の時間を、小説の読書に使っていました。よく読んでいた文庫本は、太宰治。そして、中古CD屋巡り。洋楽に出会ったのもこの頃です。

ボブ・マーリーやプリンスのアルバムを良く聞いていました。そして、多感な時期、最も衝撃を受けた出会いがありました。「新世紀エヴァンゲリオン」です。

なんとなく、夕方自宅でテレ東をみていて、偶然に第1話を観たのです。衝撃を受けました。ハマりました。地方在住の平凡な、映画やアニメや文学好きの少年の心を鷲掴みにするには、十分すぎるパワーが有りました。

この作品をリアルタイムで見られたお陰で、若い青年の心のなかに私も映像表現をしてみたい、監督という立場になれば自分の映画をつくれる立場になれるのかという野心の種が植え付けれれたのでした。

大学生活の失敗と映画制作サークルでの活動

大学は社会の教師になるための、それ専攻の学科がある学部に入学しました。このときは、大真面目に学校の先生を目指して大学の門をくぐったのです。しかしです。入学3日目にして、その思いは灰と化して消し飛んでしまったのでした。

何があったのかというと、入学すると新入生は学科のオリエンテーションや新歓コンパなどがあるのですが、私はそこの体育会的でワイワイしたネアカなノリというか雰囲気というか人間関係に全くついていけませんでした。

もうビックリするくらい合わないのです。水と油と言っても良いくらいです。世の中には、どうあがいても合わない仕事、組織、人間関係というものがあるのだという冷徹な現実をこの時、身を以て初めて学びました。

ここでまた、人生の損切りができませんでした。とっとと退学して、別の大学を再受験することもできたはずです。しかし、ここでも中途半端に判断を遅らせて、事態を悪化させることになりました。

結果、水の合わない場所でモチベーションは全く上がらず、どんどん堕落していき、授業にもほとんど出ずに4年制大学で留年を繰り返し、合計6年もフォーカスのあわない大学に在籍することになったのです。

しかしその分、サークル活動には精を出しました。ワンダーフォーゲル部と新聞部と自主映画制作の会(以下、映画部と省略)に入部し、ワンダーフォーゲル部は体力的かつ金銭的に厳しいので、早々に退部。新聞部と映画部は卒業まで所属し関係を保ちました。

新聞部はキャリア志向の真面目な人と、実にいい加減な人がはっきりしていました。私はいい加減な人たちに触発され、そのうちの何名かとは今でも親交があります。

映画部は更にいい加減な人たちの巣窟でした。私は大学6年間、この映画部での活動に心血を注ぎこむことになりました。ちなみに後の妻となる女性ともこのサークルで出会いました。

映画部では主に、監督業とプロデューサー業と部活動全体のマネジメント業に取り組みました。特に力を入れた仕事は、映画部の活動のデジタル化の断行でした。西暦2000年当時、時代は8ミリフィルムの衰退とデジタルビデオやDVDの台頭、また個人で動画編集ができる性能を持ったPCの登場という時期に突入していました。

映画部という組織を延命、そして部員各人が学生が捻出できる予算で映像作品制作を行っていくには、デジタル化が必須でした。そのために、先(ま)づ隗(かい)より始めよです。私自身がPCとデジタルカメラと動画編集ソフト、プロジェクターを購入し、すべて独学でPCを勉強し、動画編集ソフトを理解し、デジタルカメラで撮影し、DVDで映像を保存し、プロジェクターで上映したのでした。

今ならば、スマホで撮影してアプリ編集、YouTubeにアップすればよいのですから、時代は良い方向に進歩したものです。ありがたいことです。

その甲斐もあり、映画部はそのあと20年ほど延命することができました。もちろん、その各時代で優秀な後輩たちが活躍してくれたのが、最大の延命要因なのは言うまでもありませんが。

しかし大学卒業後、40代になるまで結果的に映像の仕事に携わることはありませんでした。

映画部の活動に邁進していく中で、自分自身の内面に作品として描きたいテーマ、モチーフ、アイデアがなくなってきてしまったのです。描きたいものが特にないのに、映像関連の仕事に行くのもどうなんだろう、という問いと迷いがこの当時の私にはありました。

自己紹介〜私の半生は挫折からの学びの日々(其の2:上京編)

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