この一年半、私は外に向かって歩いてきました。
人との出会いに、学びに、縁に――
そこに“何か”があると信じて。
けれど、結局のところ、
外に答えはありませんでした。
それは、決して誰かが悪いのではなく、
世界が間違っていたのでもありません。
ただ、真理とはもともと内にしか存在しないということ。
それに尽きるのです。
お釈迦様が2500年前に、インドの菩提樹の下で見出されたあの真理――
「すべての苦しみは、執着と無明から生まれる」
その教えに、私はようやく深く頷けるようになりました。
遠回りをしてようやくたどり着いた、
“最初からあった場所”。
諦めるとは、「明らかにして、手放すこと」。
わかるとは、「分けること」。
私は今、自らの内に“明確な区切り”を持つことができています。
人を求めること、
愛を外に探すこと――
それは、どこかにあるはずの“救い”を追う旅でした。
けれど本当の救いは、
自分の内にこそあるのだと、今でははっきりと言えます。
誰かに変わってほしいと願う代わりに、
自らを整え、磨き、目覚めること。
人を気にし、比べる時間があるなら、
そのまなざしを、自分自身の内奥へと向けましょう。
「他者を想う故に他者がある」――
確かに、それは愛のひとつの形かもしれません。
けれど本当の愛とは、
誰かの中に自分を求めるのではなく、
己の中に光を見出し、その光で世界を照らすこと。
それが、自他を超えた魂の慈しみです。
そして私は、ようやく気づきました。
真理は、万人に優しい顔を見せてくれるとは限らない。
ときに厳しく、ときに静かに、
深い洞察と問いかけの中にしか姿を現しません。
しかし、だからこそ――
私たちはその“静かな光”を見失ってはならないのです。
神に従うのではなく、神とともに歩む。
誰かの教えにすがるのではなく、
己の内に神意を見出し、それに従って生きる。
それが「神人合一」。
宇宙の真理、大いなる法則と一体となって生きるということ。
もう答えを外に探す必要はありません。
すべては、あなたの中にあります。
そして、それに気づいたとき、
あなたは静かに微笑むでしょう。
「何も持たなくとも、私はすでに在る」と。
――審神者 吉祥礼 拝