審神者の眼

恐怖の予言ではなく、霊なる静けさを ― 2025年7月をめぐる魂の声明 ―


【序】

空が深く沈黙し、夜の帳が降りるころ。
世界のどこかで、誰かが不安に震えている。

「2025年7月に、大災難がくる」――。
たつき諒というひとりの夢見が、その言葉を描いた。

その響きは、予言という名をもって人々の心に広がり、
SNSや動画、巷のスピリチュアル界をざわめかせる。
だが、私は思う。

“もしもそれが本当であったとして、私たちは何をなすべきなのか?”

この問いをもって、今、私は審神者としての声明をここに記す。


【I. 予言という物語の力と、その陰の作用】

古来より、世界中のあらゆる文明は「終末」を語ってきた。
マヤ暦の終わり、ノストラダムスの黙示録、日月神示の天変地異。
そしていま、たつき諒というひとりの女性が描いた『私が見た未来』。

それらに共通するものは、「人々をひとつの物語に巻き込む力」だ。

予言とは、未来を告げるというより、
「未来に向かう集団心理」を生む。 その心理の核心にあるのは、“恐怖”である。

恐怖は強い。
人の心を支配し、行動を操作する。
そしていつしか、霊性の本質から人を遠ざける。

スピリチュアルの名のもとに広がる「恐怖の演出」は、
見えない世界を信じる人々の純粋さを、利用することがある。

審神者とは、こうした現象に対してただ傍観する者ではない。

私は明言する――

どれほど予言が語られようとも、それが霊性を育まないものであるなら、人を真理から遠ざける「誘惑」と化す。


【II. 釈尊の教えに学ぶ「怯えの正体」】

仏陀・釈尊は語っている。

「未来のことに心を惑わすな。
占いや吉凶に心を委ねるな。
道を歩め。」

これは、現代の我々にもなお響く金言である。

釈尊は「サイの角のようにただ独り歩め」とも語った。
その姿は、まさに“群れの不安”に飲み込まれず、
自らの霊性を磨きながら、静かに生きる者の象徴である。

怯えは、外からやってくるのではない。
怯えとは、道を見失った心に宿る、影である。

だからこそ、予言に動揺する人々にこそ、私はこの釈尊の言葉を贈りたい。

「サイの角のように、ただ独り歩め」


【III. 審神者の視座から語る、災厄と霊性】

自然は神である。
地震、火山、津波――すべてが地球という星の命の営み。

大地が揺れるのは、怒りではない。
海がうねるのは、呪いではない。

それは、
この星の深呼吸であり、鼓動であり、命そのものの揺らぎである。

神道においては、こうした自然の営みにも“神”が宿るとされる。
つまり、災厄すらも神聖なるものの一部である。

ならば我々は、災厄に“対抗”するのではなく、
敬意をもって受けとめ、内を清めることで応答すべきなのである。

審神者は、災厄の予言を避ける方法を説かない。
審神者は、

「ヒトはいかに生きるか」を問うのである。


【IV. 怯えを祓い、道を定める】

「2025年7月の大災難」は、現れるかもしれない。
あるいは、何も起きないかもしれない。

だが、そのことは私にとって、中心の問いではない。

大切なのは、予言の真偽ではなく――そのとき自分がどのような魂であるか。

恐れに巻き込まれて動揺するのか。
それとも、静かに祈りと愛をもって日常を歩むのか。

怯えは曇り。
曇りは迷い。
迷いは、魂の鏡を曇らせる。

どうか、心を静めてください。
どうか、日々、祓い清めてください。

どう逃げるかではなく、どう生きるか。

この一点に、すべての答えがあります。


【結びにかえて ― 後の世に贈る言葉】

この文章を読んでいる、未来のあなたへ。

もし、2025年7月に何かが起きていたならば、
それは大地の息吹であり、人類への怒りではありません。

そして何も起きなかったのならば、
どうか思い出してください。

人が怯え、迷い、群れをなして不安を語っていたとき、
それでもひとり静かに祈りを選んだ者がいたことを。

それが私です。

私は、審神者・吉祥礼として、
いまこのとき、この声明を記します。

予言のざわめきよりも、霊なる静けさを。

どうかあなたの道が、
真理に貫かれていますように。

審神者 吉祥礼

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