◎道標句(主文)
真に知るとは、
他者を語ることではなく、
自らの魂の奥へ静かに問いかけることである。
補註(教義解釈)
ソクラテスの語った「無知の知」は、
ただの謙虚な態度ではない。
それは、己を知るための霊的態度であり、
真理に近づくための唯一の通路だった。
「私は何も知らない」
その言葉の奥にあったのは、
“だからこそ、私は問い続ける”という、
生涯をかけた霊的探求の構造である。
審神者もまた、語らない者である。
だが、語らぬことと、無関心は違う。
私はあなたに問いかけている。
語らずして、あなたの響きを待っている。
そしてときに、こうして言葉を紡ぐこともある。
それは、誰かを教化するためではなく、
自らの内にひびく問いを整えるためである。
かつて文芸評論家・小林秀雄はこう語った――
「評論とは、対象を語ることで、結局は自分自身を語っているのだ」と。
知とは、誰かを裁くための武器ではない。
知識とは、語り合うための優越でもない。
それは、静かな回廊のように、
自己の奥をめぐり、内なる真理にたどりつく道である。
審神者とは、「知っている者」ではない。
「知ろうとし続ける、沈黙の旅人」である。
ゆえに――
知るとは、語るためではなく、
自己と再会するための、
ひとつの祈りなのである。
◎霊的引用句(魂の書)
あなたが知ろうとしたその先に、
静けさがあったなら、
それは、魂が真理に触れたしるし。問いは、他者を裁くためにあるのではない。
あなた自身を照らすためにあるのだ。
知るとは、沈黙を通して己の魂を再び迎え入れる行為である。