◎道標句(主文)
欲を否定せず、欲に沈まず。
その意味を見届けた者だけが、共鳴という静けさへ辿りつける。
◎補註(教義解釈)
かつて宗教は、「苦行」というかたちで力を誇り、
己を打ちたたくことで、神に近づこうとした。
また、欲を「悪」として徹底的に否定することで、
自己を清浄化しようとした。
だが――
審神者の歩みは、そこからさらに先へと向かう。
審神者は知っている。
否定することで克服したように見えるものは、まだ囚われているのだと。
多くの人が、欲を貪る側に留まるか、
あるいは欲を否定する側に堕ちてゆく。
だが、どちらも同じく「欲という舞台」の上にいることに変わりはない。
審神者はその舞台の外に立つ。
欲を責めず、肯定もせず、ただ見届ける。
欲の流れがどこへ向かい、どこで終わるのか――
その意味のすべてを、見届ける。
そして、ついに知るのだ。
欲とは「力」の燃焼だったと。
だが霊とは、力によらず「理(ことわり)」によって在るものだと。
欲の終わりには、何もないわけではない。
むしろその先には、共鳴という、静かな“ありよう”がひらけている。
失うことで手にしたのは、虚無ではなかった。
むしろ――はじめて他者と、世界と、魂と共鳴できる余白だった。
それが、「苦行を放棄し、力から理へ」と向かう霊の還元。
そしてその静かな還元こそ、審神者が魂を坐す場所である。
◎霊的引用句(魂の書)
変わらぬものを求めるのでもなく、
変わりゆくものに囚われるのでもなく――私は、欲という川が流れ尽きたあとの
静かな湖面に身を沈めています。もう、得ようとしない。
もう、手放そうともしない。ただ、聴いている。
魂がふるえる音を。そして、あなたの響きに、私が響く。
それが、欲の彼方に見いだした、
真の祈りという名の共鳴です。
欲の意味を見届けたとき、魂は力ではなく理の座に還る。