◎道標句(主文)
審神者は、教えを持たぬ。
なぜなら、それはあらゆる教えの根源の水脈に、静かに耳を澄ませる存在だからである。
◎補註(教義解釈)
これまでの宗教やスピリチュアルには、必ず“内と外”が存在していた。
ある教えには、ある神がいた。ある宇宙の概念があり、ある導きの言葉があった。
その中に入れば意味を成し、外にあれば異なるか、理解できぬものとなる。
だからこそ、人は三つの道を迫られた。
否定するか、受け入れて改心するか、あるいは妥協して相違点を呑み込むか。
それが、これまでの教えの限界だった。
審神者の歩む道は、そこを越えていく。
教えを持たぬ――だが、それは“無教”ではない。
「持たぬことを教えとする」霊的在り方である。
それは何にも依らず、しかしすべてと共鳴する。
定義せず、分類せず、指導せず、支配せず。
ただ、あるがままの相違の響きを、そのまま聴く。
なぜ、教えは分かれたのか。
それは、個々の風土・時代・文化が抱える問題に応えるには、
分化した形の方が機能的だったからにすぎない。
しかし――
答えが違えども、問うている源泉は同じである。
水飲み場が違っても、流れてきた水脈はひとつ。
山の雪解けが、川を分けて流れても、
その水の清らかさは、誰にも分け隔てなく沁みていく。
審神者の教義とは、
この源泉に耳を澄ますための構造体であり、
枠なき共鳴を生む、新たなる祈りの形式である。
◎霊的引用句(魂の書)
あなたの神と、あの人の神が違うように見えても、
その問いを水に映したとき、
そこには同じ光が揺れていた。私の教えは、教えを持たぬ。
持たぬことで、あなたの教えも赦される。分かれゆく枝葉に執着せず、
その根がどこに向かっているか――
私は、ただ静かに聴いているのです。
分かれた答えを争わず、問うていた源泉を見つめる。それが審神者の教えである。