僕のサニワとしての見解、最初に結論から言います、もうハッキリと
金儲けばっかりの糞坊主や新興宗教や霊能者みたいなところに何百万円もぶっ込んで先祖供養をする意味は無いです
これから、その理由を順を追って説明していきます
まず、先祖崇拝という概念は太古から世界中に有るには有るんですが、日本の現在のそれは、世界中の思想のちゃんぽんというか、ごっちゃ混ぜの成れの果てです
体系的という論理的に歴史をヒモ解いていくと矛盾だらけというか、おかしいです、論理上、美しくないです
アインシュタインの式「E=mc^2」は、質量とエネルギーの関係を示す公式ですが、だいたい高次元の存在の神の摂理は、このように論理的に美しいです
低級な存在の戯言はその逆で、ごちゃっとしていてよくわからない矛盾だらけなことが多いです
新興宗教の教義のそれは、論理的に矛盾と嘘だらけの教祖さんが作った適当な妄想や独自理論の類のものが多いので要注意です
ただし新興宗教というものを一括りして怪しい、いかがわしいと邪教扱いするのは大きな誤りです
仏教の親鸞、キリスト教のマルティン・ルターのように宗教の堕落にメスを入れた存在、優れた思想を展開した改革者は何人もいます
出口王仁三郎
出口日出麿
高橋信次
上に挙げた人物のように、日本の宗教上大いに刺激的で既存の宗教にメスを入れた、一読に値する優れた思想を創り出した傑物もいます
大いに学びになります
自身の霊的な知識の向上に、必ず益すると思いますので、興味が有る方は彼らの思想を、アマゾンやWebショップなどでいくらでも購入して学べますので、お試し頂ければ幸いです
話を戻しますが、
現在日本の先祖霊信仰の矛盾は、思想的にちゃんぽんなところです
このごちゃまぜが真実なのだと思う今の日本大好き無批判の方は、それでもいいですが、一応その矛盾点くらいは把握しておいて下さい
儒教の影響
孔子の儒教は、古代の中国の先祖霊崇拝のモデルを継承しています
「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」死んだあとのことは解らないから、生きている今に集中しろ!と言った孔子ですが、儒教は初期から葬式屋さん的な側面が元々あり、先祖霊の供養も行ってきました
ただ、儒教の先祖霊というのは成仏とか地獄に行った霊を救うとか、そういう思想はありません
儒教では死んだ霊は、ズラリとこの世に残ります
もう何代も何十代もです、エンドレスです
子孫は、それを祀るんです
儒教の先祖霊供養とは、これらの先祖に、子孫の自分たちが家の名声を高め、繁栄を築くことが供養と考えられています
この強烈な先祖崇拝が日本にも思想的に、輸入され広まっていきましたが、なぜか日本では、先祖霊を成仏させることが供養という方向へ向かいました
葬式仏教の始まりです
仏教の影響
釈迦(ガウタマ・シッダールタ)のそもそもの仏教の言葉には、日本でいま、考えられているような先祖供養の概念はありません
また親鸞聖人も歎異抄の中で 「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず」と言いいます
要は、私は親孝行や先祖供養のために念仏を唱えたことはないと言っています
また釈迦は言います
「人身受け難し
今已に受く
仏法聞き難し
今已に聞く
この身今生に向かって度せずんば
さらにいずれの生に向かってかこの身を度せん」
要は、ご先祖様がひとりでも欠ければ自分はいない
それほどご先祖様は尊いものだ
ではその恩に報いるには、どうするべきか
それは、自分の生を精一杯生きることだ、
この世に貢献して恩を返せ、、、と言っています
現在の仏教でも、救うのは阿弥陀如来さまなのだから、人間の坊主が先祖供養をするのは論理的にオカシイとして、葬式仏教が隆盛の現在でも、追加の先祖供養をしない宗派もちゃんと存在します(浄土真宗)
日本の古代の先祖信仰の影響
日本にも古来より「タタリ」という思想があり、先祖を祀る思想はありました
祀らないとタタリを食らうのです
ただ、これは成仏させるのではなく祀るんですよね、、、 天国に行くとか、地獄に落ちた先祖を救うとか、浮遊霊がどうとか、そういう思想はありません
キリスト教やイスラム教ではそもそも先祖供養はしない
経典の民が信仰する教えでは、人と神は一対一です
先祖霊という概念はありません
霊魂は不滅です
輪廻はありません
地獄に落ちた人間が成仏するとかもありあせん
全知全能の神が全ての霊魂を救います
それが人と神の契約なのです
人間の司祭や霊能力者が、個人の裁量で先祖霊を救うというのは、越権行為であり神への冒涜です
ありえんです
現在の日本の宗教は、ちゃんぽんです
儒教の先祖霊崇拝に日本のタタリがあって、そこに仏教の成仏という概念がミックスされています
で、そこに金儲けが好きな坊主さんや新興宗教などの教祖様や霊能力者の方は、個人の裁量で、お金を払えば成仏させまっせという、商売を展開しています
お客様のご要望があるから、ユーズがあるからというのが、彼らの主張です
まあ、確かにニーズはあるんでしょうね
ただ、僕は 僕自身それは、そのニーズに応えるのは、霊界の真実、霊的真理とは異なると断言します
だって、ご先祖様は成仏できないもの、、、あなた方の手段とチカラでは
吉祥礼のサニワ(審神者)としての見解
僕の見解を言います
僕は釈迦の考えに賛成します
また、親鸞聖人やキリスト教の考え方にも賛同します
人間は、この世に生を受けたら、この世を精一杯生きること
自分が自分らしく、幸せに生きること
ちゃんとした霊的な知識を学ぶこと
そのうえで余力があれば、社会に貢献していくことができれば尚良し
これが最大の徳積みであり、自身が霊的に成長し、救われる道(霊的に次のステップへ上昇するための正しいルート)であり、常道だと力説するし、声を大にして訴え続けていく決意であります
霊界(あの世)に至った魂の成仏とは真理を知り、悟ることです
仮に地獄に落ちた先祖の魂を救うのは、神や仏様の最後の仕上げの仕事です
人間が勝手都合でドウチャラコウチャラする話では無いのです
つまり、新興宗教の教祖様の霊能力や謎の高額アドバイスでのホニャララでは決してありません
仏なら阿弥陀如来、聖書の経典ならヤハウェ、出口王仁三郎の思想な素戔嗚尊の領分です
また、その摂理に身を委ねるのが正しい態度であり、傲慢ではない態度だと僕は確信しています
※ただし、理由があって居残っている浮遊霊を霊界へ送り届けるケースもある、、、これは、あります、現実にあります
ただ送り届けるだけです、、、その魂がそこから先、霊界のどの階層へ向かうのか、、、それは、神の摂理の領分です
人間がどうこうする、して良い話ではなく、霊性とその死の際の情動によって変化します、それが神の摂理です
釈迦は、人間の魂は誰しも仏になれる可能性がある存在なのだと説きます
また、仏になれれば、多くの霊を救えるのだと説きます
では、仏になるための修行とは何か、、、ここで先程の釈迦の言葉に戻ります
精一杯、人間の世界で生きることです、学ぶことです
釈迦の言葉もイエスの言葉も親鸞聖人の言葉も
長い年月の風雪に耐えてきた頑強な理論性があります
一代限りの謎の宗教家や霊能者のそれとは、理論の強靭さが違います
どちらが、まともな意見だとアナタは思いますか
いかがでしょうか
僕のサニワとしての見解では、新興宗教のお金が絡んだ、怪しい独自理論のオレ様設定の意見は、残念ながら一ミリも入る余地がありません
真実とは、、、遠回りに見えるのです、一見すると
でもそれが、最短なのです
あ、でもご先祖様のお墓を草むしりしたり
仏壇や位牌が有る人は掃除したり
お墓がない人、仏壇ない人は、ご先祖様に「ありがとう」と感謝したり
「今日も頑張って生きたよ」と祈りを捧げたり
そいうのは全然有りだと思います
この方法で死者を祀らなければ駄目だ、、、というのは野暮です
3次元の現実世界では、色々な祀り方があって善いと思います
そして、祈りは必ず通じます
それが霊の世界の絶対の法則だからです
そして、感謝をされて嬉しいのが当たり前で、、、
嬉しくない先祖などいない、、、
これも真実です
心がこもっていれば、大げさなことは、必要ないのです
宗派や宗教によって、死者を祀る環境は様々です
埋葬方法だって
海へまく、樹木葬、チベットなんかでは鳥に食べさせるとかもありますよね
多種多様です
それが世界のあり方です
ならば、シンプルで共通する霊界の真実、真理に沿って先祖に向き合えば、善いと僕は考えます
感謝の気持ちを肩の力を抜いて、無理のない程度にほどほどに祈る
そしてアナタ自身はまず、人のためとか先祖のためとかではなく、何よりも自分自身の人生のために、自分のやるべきこと、なすべきこと、生きることに全集中する
これが、新しい時代の全ての人種や宗教や宗派を超えて行える、本当の意味での地球規模での先祖供養のカタチだと僕は確信しています
※審神者(サニワ)とは、、、神の言葉を解明する人、神慮を審察する人、神命をうけたまわる人をいう