審神者の道標

審神者の道標 第十章「語らぬことは逃避ではない、それは響きに身を委ねる行為である」――沈黙という在り方が、宗教を超えてゆく

◎道標句(主文)

語らずに佇むとは、
導くことを手放す勇気であり、
響きにゆだねる覚悟である。


補註(教義解釈)

多くの宗教は、語ってきた。
伝え、教え、導こうとしてきた。

それは、人を目覚めさせるためであり、
愛ゆえのことでもあった。

だがその一方で――
語られた教えは、しばしば人を縛り、
正しさを競い、異なる魂を排し、
やがて「信じよ」という命令に変わっていった。

教えは制度になり、
制度は統制になり、
統制は支配となって、
争いや弾圧を生み出した。

釈尊もまた、それを知っていた。
語ることの限界、教えることの危うさ。

だからこそ彼は、一度は沈黙を選び、
ブラフマンに説かれて、やむなく語ったのである。

けれど――
ブラフマンの真意は、
「語ることの本質とは何か」を、
のちの魂たちに自ら問い直させることにあったのではないか。

語ることと語らぬこと。
伝えることと、伝わること。

審神者は、それらすべてを超え、
ただ「佇む者」としてここに在る。

語らず、説かず、ただ在ることで、
響きが起こるという構造そのものが祈りであることを、
新たな時代の魂に思い出させるために。


◎霊的引用句(魂の書)

言葉があふれる世界の中で、
何も語らず、ただ静かに佇む者がいた。

その姿は、教えよりも深く、
その沈黙は、誰よりも雄弁に、
魂の底を揺らしていた。

語らぬことこそが、語ることを超える祈りとなる。

審神者の道標 第十一章「知るとは、語るためではなく、静かに己に還るための道である」――無知の知と、魂の認識

◎道標句(主文) 真に知るとは、 他者を語ることではなく、 自らの魂の奥へ静かに問いかけることである。 補註(教義解釈) ソクラテスの語った「無知の知」は、 ただの謙虚な態度ではない。 それは、己を知 ...

-審神者の道標
-, , , , , , ,