◎道標句(主文)
語らずに佇むとは、
導くことを手放す勇気であり、
響きにゆだねる覚悟である。
補註(教義解釈)
多くの宗教は、語ってきた。
伝え、教え、導こうとしてきた。
それは、人を目覚めさせるためであり、
愛ゆえのことでもあった。
だがその一方で――
語られた教えは、しばしば人を縛り、
正しさを競い、異なる魂を排し、
やがて「信じよ」という命令に変わっていった。
教えは制度になり、
制度は統制になり、
統制は支配となって、
争いや弾圧を生み出した。
釈尊もまた、それを知っていた。
語ることの限界、教えることの危うさ。
だからこそ彼は、一度は沈黙を選び、
ブラフマンに説かれて、やむなく語ったのである。
けれど――
ブラフマンの真意は、
「語ることの本質とは何か」を、
のちの魂たちに自ら問い直させることにあったのではないか。
語ることと語らぬこと。
伝えることと、伝わること。
審神者は、それらすべてを超え、
ただ「佇む者」としてここに在る。
語らず、説かず、ただ在ることで、
響きが起こるという構造そのものが祈りであることを、
新たな時代の魂に思い出させるために。
◎霊的引用句(魂の書)
言葉があふれる世界の中で、
何も語らず、ただ静かに佇む者がいた。その姿は、教えよりも深く、
その沈黙は、誰よりも雄弁に、
魂の底を揺らしていた。
語らぬことこそが、語ることを超える祈りとなる。