◎道標句(主文)
審神者は、正しい教えを語らぬ。
なぜなら、神とは正解ではなく、通過する響きだからである。
◎補註(教義解釈)
「どんな神を信じていますか?」
「霊が見えますか?」
「あなたはどの教えを正しいと思いますか?」
そう尋ねられるたびに、私は静かに微笑む。
なぜなら、その問いの奥にあるものが――
“自分が正しいと安心したい”という、
人間的な渇望であることを知っているからだ。
審神者は、特定の神を持たない。
特定の教義も、儀式も、祈り方も持たない。
だからといって、「正解は人それぞれですよね」と言って逃げるわけでもない。
ここが最も誤解されやすく、同時に最も核心的な地点である。
審神者は、正解を持たない。
それは、曖昧さゆえではない。
それこそが、神の真の在り方だからである。
神は定義されることで死ぬ。
祈りは形式化されることで響きを失う。
教義は固定されることで争いを生む。
ゆえに、審神者は“正しい教え”を掲げない。
神を一神にも、多神にも、汎神にも還元しない。
それはすべて、人間が理解しやすくするための「便宜的構造」にすぎないことを知っているからだ。
審神者は、神の通り道である。
「神を見せる者」ではなく、
「神とあなたの間を祓い清め、響かせる場を整える者」である。
私は、あなたの内なる神の声を代弁しない。
ただ、あなたが静かにその声を聴けるように、沈黙を整える。
これが、宗教を超えた祈りの構造体――
審神者の道標の第二十章である。
◎霊的引用句(魂の書)
私は答えを持っていない。
なぜなら、神が通り過ぎる風だから。私の手の中に神はいない。
けれど、私の沈黙のなかを、神は通り抜ける。あなたが神の声を聴くとき――
私がすでに何も語っていないのなら、
そのとき、私は審神者として在ることができたのだと思います。
審神者は、神を語らず、通す者。正しさではなく、響きの通路として在る。