◎道標句(主文)
意味を問えぬまま逝った命に、
意味を与えようとするな。
それらの命は、ただ在ったという事実だけで、すでに祈りである。
◎補註(教義解釈)
人は問う――
「なぜこの世に生まれてきたのか」
「人生には何を学ぶ意味があるのか」
「苦しみにはどんな教訓があるのか」
宗教やスピリチュアルの多くは、
この問いに対して「魂の成長」や「カルマの精算」など、
“意味ある物語”を提供してきた。
だが、審神者はここに深く抗う。
意味の押し付けは、祈りを冒涜することがあるのだと。
生まれてすぐに亡くなった赤子、
交通事故で突如命を絶たれた少年、
虐待によって声も上げられず消えていった子どもたち――
彼らの命に、「意味」や「学び」や「罪と罰」を当てはめてはならない。
それは、説明によって安心したい人間の側の都合であり、
本来、その命たちは何も言わずとも、在っただけで世界を変えたのだ。
審神者は、意味を語らない。
「これはこういう理由だった」と、命の物語を括らない。
なぜなら――
その子たちの命の気配を、誰よりも尊く感じているからである。
問えなかった者たち、
理解もできずに終わった魂たち、
その全てを否定も解釈もせず、
ただ、静かに肯定する。
それが、宗教を超えた宗教――
審神者の道標なのである。
◎霊的引用句(魂の書)
私は、その子が何を学んだかを知らない。
けれど、たしかに――
その子は一度、世界に息を吹き込んだ。その息は、風になり、
誰にも知られず、祈りになった。私たちが語るべきではないのだ。
あの小さな命が、
世界に刻んだ無音の祈りを、
そのままの静けさで聴き取ることこそが――
本当の信仰というものなのだから。
意味を語れぬ命に、意味を与えようとするな。ただその存在を祈りとして受けとめよ。