― 神を語らずに、神を感じさせる文学へ ―
文学は長く、現実の模写を使命としてきた。
自然を、社会を、人間の心を、ありのままに描くこと。
それは「リアリズム」と呼ばれ、19世紀以降の表現の核となってきた。
けれども、私たちがいま生きるこの世界は、
可視の現実だけでは捉えきれない「魂の構造」によって支えられている。
見えない祈り。
語られぬ孤独。
愛されたいと願いながら誰にも触れられない夜の震え。
禁欲でも解放でもない、ただ透明な“共鳴”としての愛。
そうした、霊的なリアル(Spiritual Realism)を描く表現こそ、
これからの文学に必要なのではないだろうか。
ドストエフスキーの『罪と罰』は、
まさにその「魂の実験室」であった。
ラスコーリニコフの思想――
「正義のためならば、悪もまた手段たりうる」という幻想は、
のちのロシア革命や全体主義へと継承され、
正しさの名のもとに、破壊と虐殺を正当化していった。
だが、ドストエフスキーはそれを断罪しなかった。
彼は語らない。裁かない。ただ描く。
だからこそ、読者の内側に“神の問い”が立ち上がる。
ソーニャは救済なのか、罰なのか。
贖罪とは清めか、共に生きることか。
そのすべては、読む者の魂に委ねられる。
ここにこそ、霊的リアリズムの本質がある。
神を語らないことで、神を感じさせること。
私は、いまここに宣言する。
わたしは、現実の影をなぞるために書くのではない。
また、宗教の教義を押しつけるために書くのでもない。
人間という不可視の存在のリアリティ――魂の真実を描くために、わたしは書く。
そこに描かれるのは、聖と俗の交錯、祈りと欲望の矛盾、
信じることと裏切ることの、消えない痛み。
霊的リアリズムとは、理想でも観念でもない。
“この現実にこそ霊は宿る”という、覚悟の表現である。
この文学は、
特定の宗教に仕えるものではない。
むしろ、魂に宿る普遍構造の探究である。
そしてわたしは、
神語(かむがたり)を携えながらも、神を押しつけない。
霊を知る者としても、他者を救おうとはしない。
ただ、存在の深みに降りて、
沈黙の向こう側にある“ほんとうのリアル”を見届けたいのだ。
それが、わたしにとっての文学である。
それが、わたしの霊的リアリズムである。
―― 吉祥 礼