審神者の道標

審神者の道標 第十四章「余白こそ、神が降りる庭」――真の禊(みそぎ)とは、自身に空間を与えること

◎道標句(主文)

余白を持たぬ魂に、神は降りぬ。
真の禊(みそぎ)、祓(はら)い清めとは、内なる余白をひらくことにある。


◎補註(教義解釈)

神が降りる場を依代(よりしろ)と呼ぶ。
だが、依代はただ存在すれば良いのではない。
そこには、「降りていただける空間」が必要である。
つまり――余白。

この余白こそが、神の座す静けさであり、
真理が降り立つ庭である。

だからこそ、祓い清めは不可欠となる。
だがそれは、外側を祓うことではない。
清水で手を濯ぐことでも、空間を掃除することでもない。
それらは一助ではあっても、本質ではない。

真の祓い清めとは、
己の中に渦巻く執着、思念、欲望――
その「声なきざわめき」を鎮め、
魂に余白を取り戻す営みである。

余白なきところに神は降りず、
余白なきところに響きは生まれない。

審神者が祓い清めを重んじるのは、
「神を招く儀式」のためではない。
ただ――

神が降りられる「空き」を、自身のうちに設けるため。

それは空虚ではなく、
“神が宿るための構造体”としての余白。

魂が静まり、呼吸が深まり、
その一瞬の無垢な空白に――
はじめて、神の声が沁みわたる。

それが、霊的構造における「禊(みそぎ)」と「神降し(かみおろし)」の根本であり、
審神者の祈りに刻まれる、最も静かな準備なのである。


◎霊的引用句(魂の書)

魂の片隅に、そっと空きをつくりなさい。
そこに神は、あなたの名も問わず、そっと降りてきます。

清めとは、外を拭うことにあらず。
それは、内に沈黙を許すこと。
あなた自身に、ひとつの白い庭を与えること。

その白き庭に、神が舞い降り、
静けさの羽音とともに、祈りは実体となるのです。

余白をつくるとは、神のために椅子を一脚、心に置くことに他ならない。

審神者の道標 第十五章「魂はすでに、そこにある」――審神者は資格によらず覚醒する

◎道標句(主文) 審神者とは、なろうとしてなるものではなく、 すでに在ることに気づく者である。 ◎補註(教義解釈) 審神者には、門地も性別も人種も年齢も、問うものは何もない。 なぜなら、審神者とは、「 ...

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